北の富士勝昭の生涯を徹底解説!第52代横綱の戦歴と功績、2024年の最期【2026年版】
北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)は、昭和から平成、令和にかけて大相撲の歴史に名を残した第52代横綱である。1942年3月28日に生まれ、2024年11月12日に82歳で亡くなった。現役時代は幕内優勝10回、生涯戦歴786勝427敗69休という実績を残し、引退後は九重親方として千代の富士と北勝海の2人の横綱を育てた。
北海道で育った少年が、出羽海部屋への入門から大関昇進、九重部屋への移籍を経て、玉の海とともに1970年に横綱へ上り詰める。その歩みには、相撲界の勢力図を変えた部屋の独立騒動や、後進を育てた指導者としての顔、さらにNHK大相撲中継で長年親しまれた歯に衣着せぬ解説者としての活躍がある。2026年現在も語り継がれる北の富士の生涯と人物像を、主要な記録と関係者の証言から振り返る。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 人物:1942年生まれ、北海道出身の第52代横綱。本名は竹沢勝昭で、出生地は北海道美幌町。
- 現役時代:1970年に玉の海と横綱同時昇進。幕内優勝10回、生涯戦歴786勝427敗69休を記録した。
- 引退後:九重部屋の師匠として千代の富士、北勝海を育成。1998年からNHK大相撲中継の解説者として活躍した。
- 晩年:2023年春場所から療養のため解説出演を休止し、2024年11月12日に82歳で逝去した。
【人物プロフィール】北の富士勝昭とは?本名・出身地・生年月日を整理

北の富士勝昭は、単に優勝回数の多い横綱というだけではない。現役時代の華やかな相撲、親方としての育成実績、そしてテレビ解説で見せた率直な人柄まで、複数の顔を持つ人物だった。
本名は竹沢勝昭、北海道美幌町生まれ

北の富士の本名は竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)。1942年3月28日生まれで、2024年11月12日に82歳で亡くなった。
出身地については、記録の表記を区別して理解する必要がある。日本相撲協会の歴代横綱プロフィールでは北海道旭川市が出身地として登録されている。一方、日刊スポーツの人物紹介や地元紙の記録では、出生地は北海道網走郡美幌町とされている。
幼少期には留萌へ移り、その後、中学生の頃に旭川で暮らすようになった。つまり、美幌町で生まれ、留萌を経て旭川で成長したという経歴である。旭川ゆかりの横綱として地元でも親しまれ、2014年には現役時代に使用した化粧回しが旭川市内の大雪アリーナに展示された。
北の富士の基本プロフィール

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 四股名 | 北の富士勝昭 |
| 本名 | 竹沢勝昭 |
| 生年月日 | 1942年3月28日 |
| 没年月日 | 2024年11月12日 |
| 没年齢 | 82歳 |
| 出生地 | 北海道網走郡美幌町 |
| 公式プロフィール上の出身地 | 北海道旭川市 |
| 所属部屋 | 出羽海部屋から九重部屋へ |
| 最高位 | 第52代横綱 |
| 身長・体重 | 185cm・132kg |
| 得意技 | 左四つ、外掛け、上手投げなど |
| 幕内優勝 | 10回 |
| 生涯戦歴 | 786勝427敗69休(105場所) |
| 横綱在位 | 1970年3月場所~1974年7月場所 |
上記の戦歴や横綱在位、所属部屋は日本相撲協会の公式プロフィールに基づく。本名については、公式プロフィールでは「竹沢」と表記される一方、地元紙などでは「竹澤」と記載される例もある。
また、しこ名は入門時の竹沢から竹美山、北の冨士、北の富士へと変遷した。現在広く知られている「北の富士」という表記に落ち着くまでにも、力士としての歩みが反映されている。
【相撲人生の転換点】出羽海部屋への入門と大関昇進、九重部屋への移籍
14歳で角界入り、1957年に初土俵
北の富士が相撲界に入ったのは1957年1月場所。まだ14歳だった。
入門先は名門・出羽海部屋。NHKの人物紹介でも、北海道で生まれた北の富士が14歳で出羽海部屋に入門したことが紹介されている。
入門当初から順風満帆だったわけではない。日刊スポーツの人物紹介によれば、新弟子検査では体重が基準に届かず、一度不合格となった経験もあった。それでも稽古を重ね、関取への道を切り開いていく。
1963年3月場所で新十両に昇進。翌年の1964年1月場所には新入幕を果たした。幕内デビューの場所では13勝2敗という好成績を挙げ、敢闘賞を獲得。将来の横綱候補として存在感を高めていった。
1966年の大関昇進は意外な決定だった
北の富士の大関昇進は1966年7月場所後に決まった。現在の大関昇進では、三役で直近3場所33勝前後という数字が一つの目安として語られるが、北の富士の場合、直前3場所の成績は8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗の合計28勝17敗だった。
15日制が定着した1949年5月場所以降の大関昇進例としても、北葉山と並ぶ低い数字だったと紹介されている。単純な勝ち星だけを見れば、異例の昇進だったことが分かる。
ただし、大関昇進には勝ち星以外にも相撲内容や番付上の事情が関係する。日刊スポーツの2024年6月の特集でも、当時の協会には大関昇進の明文化された内規がなく、複数の要素を総合して判断していたと説明されている。
当時は豊山が一人大関という番付事情もあり、北の富士の昇進が決まった。本人も昇進を予想していなかったため、伝達式の朝は寝ていたという。
さらに、昇進伝達式に必要な紋付や足袋も用意されていなかった。紋付は兄弟子の横綱・佐田の山から、足袋は柏戸から借りて間に合わせた。師匠の出羽海親方夫妻も部屋を留守にしており、佐田の山が師匠代理として立ち会う異例の伝達式となった。
このエピソードは、後年の北の富士がNHK解説で昇進の星勘定にあまり積極的に触れなかった理由を考えるうえでも興味深い。本人にとっても、大関昇進は単純な数字だけでは語れない経験だったのだろう。
1967年、九重部屋への移籍で運命が変わる
北の富士の相撲人生を大きく変えたもう一つの出来事が、1967年の九重部屋への移籍である。
当時、出羽海部屋では後継者をめぐる事情が変化していた。元横綱千代の山の九重親方は、将来的に出羽海部屋を継承する立場と見られていたが、佐田の山が後継者に決まったことで独立を選択する。
この際、大関だった北の富士も九重親方に同行した。複数の力士を伴った独立は、出羽海一門の「分家独立を許さず」という慣習にも関わる大きな出来事となり、九重親方は出羽海一門を離れて高砂一門に移った。
北の富士にとって、この移籍は所属部屋が変わっただけではない。後に自身が九重部屋を継承し、千代の富士らを育てることにつながる重要な転換点だった。
【1970年の快挙】玉の海との横綱同時昇進と北玉時代
優勝決定戦を制して第52代横綱へ
1969年11月場所で優勝を果たした北の富士は、1970年1月場所でも優勝争いの中心となった。
この場所では大関・玉乃島との激しい優勝争いが展開された。千秋楽の本割では玉乃島に敗れたものの、優勝決定戦で雪辱を果たして連続優勝を達成する。
この実績によって、1970年初場所後に玉乃島とともに横綱へ昇進した。玉乃島は横綱昇進に際して玉の海と改名し、第51代横綱となる。北の富士は第52代横綱に数えられる。
同時昇進によって生まれた呼び名が「北玉時代」だ。
共同通信の用語解説によると、両者はそれぞれ異なる取り口で人気を集めた。右四つで力強く攻める玉の海に対し、北の富士は長身を生かしたスピード感のある左四つの相撲を得意とした。
同じ時代を担った2人でありながら、相撲の個性は対照的だった。互いに競い合う存在がいたことも、北玉時代の魅力を高めていた。
幕内優勝10回、生涯戦歴786勝の実績
日本相撲協会の公式記録によると、北の富士の生涯戦歴は786勝427敗69休(105場所)。幕内では592勝294敗62休を記録し、幕内優勝は10回に達した。
優勝回数10回という数字は、横綱としての実績を考えるうえで欠かせない。1967年に初優勝を果たし、その後も大関・横綱として優勝を重ね、1973年春場所には10度目の優勝を飾った。
得意技は左四つ、外掛け、上手投げなど。185cmの長身を生かし、相手の体勢を崩してから一気に攻める相撲を見せた。突っ張りも含め、多彩な攻めを持っていた点が強みだった。
北の富士の主要記録と歴史的な転換点
| 年代・時期 | 出来事 | 意味・実績 |
|---|---|---|
| 1942年3月 | 北海道美幌町に生まれる | 本名・竹沢勝昭 |
| 1957年1月 | 出羽海部屋から初土俵 | 14歳で角界入り |
| 1963年3月 | 新十両昇進 | 関取への昇進 |
| 1964年1月 | 新入幕 | 13勝2敗、敢闘賞 |
| 1966年7月場所後 | 大関昇進 | 直前3場所28勝17敗 |
| 1967年 | 九重部屋へ移籍 | 千代の山の独立に同行 |
| 1967年 | 幕内初優勝 | 初優勝を達成 |
| 1970年初場所後 | 横綱昇進 | 玉の海と同時昇進、第52代横綱 |
| 1973年春場所 | 10度目の幕内優勝 | 通算優勝10回を達成 |
| 1974年7月場所 | 現役引退 | 横綱在位27場所 |
| 1977年 | 九重部屋を継承 | 後進の育成に本格的に取り組む |
| 1998年春場所 | NHK解説者として活動開始 | テレビ解説の新たなキャリア |
| 2021年 | NHK放送文化賞を受賞 | 放送への長年の貢献が評価される |
| 2024年11月12日 | 82歳で逝去 | 相撲界と放送界に功績を残す |
この年表から分かるのは、北の富士のキャリアが力士としての成功だけで終わらなかったことだ。横綱昇進後の活躍、親方としての育成、NHK解説者への転身という3つの段階で、相撲界への貢献を続けていた。
【引退後の功績】千代の富士との師弟関係と九重部屋の継承
1974年に現役引退、井筒部屋を創設
北の富士は1974年7月場所で現役を引退した。横綱在位は1970年3月場所から1974年7月場所までの27場所だった。
引退後は年寄・井筒を襲名し、自ら井筒部屋を興した。現役時代の経験を生かし、若い力士を育てる立場へと移った。
1977年、師匠だった元横綱千代の山の九重親方が亡くなると、九重部屋を合併する形で継承した。これにより北の富士は九重親方として、多くの弟子を育てることになる。
千代の富士とは兄弟弟子から師弟関係へ
北の富士と千代の富士の関係は、単純な師匠と弟子という言葉だけでは説明できない。
千代の富士は、もともと北の富士と同じ九重部屋に所属していた弟弟子だった。北の富士が九重部屋を継承したことで、立場が兄弟弟子から師匠と弟子へと変わったのである。
千代の富士は1981年に大関へ昇進し、同年秋場所後には第58代横綱に昇進した。北の富士は弟子の横綱昇進を見届けた指導者となった。
さらに、北勝海も九重部屋から横綱へと成長した。1988年には第61代横綱に昇進し、北の富士は千代の富士と北勝海という2人の横綱を育て上げた。
日刊スポーツの報道では、2016年に千代の富士が亡くなった際、北の富士は九重部屋を訪れ、弟子について「これだけの弟子は2度と出るとは思わなかった」と振り返っている。師弟としての結びつきの深さがうかがえる言葉だ。
1992年には千代の富士へ部屋を引き継ぐ
千代の富士が1991年に現役を引退した後、北の富士は1992年に九重部屋を千代の富士へ譲った。その後は部屋付きの陣幕親方となり、指導者としての役割にも変化が生まれた。
この継承は、単に部屋の経営者が変わったという話ではない。北の富士自身が育てた横綱に、自らの部屋を託したという点で、九重部屋の歴史における大きな節目だった。
北の富士は1994年に日本相撲協会の広報部長に就任。その後、審判部長などの協会運営にも関わった。現場の指導者から協会幹部へと役割を広げていったのである。
【NHK相撲解説】北の富士が愛された理由と白鵬への名コメント
1998年からNHK大相撲中継の解説者に
北の富士のもう一つの大きな功績は、NHK大相撲中継での解説活動だ。
1998年初場所後に日本相撲協会を退職し、同年春場所からNHKの大相撲中継で解説を担当するようになった。力士としての経験だけでなく、親方として多くの力士を育てた経験が、解説の厚みにつながっていた。
北の富士の解説は、専門的でありながら難解になりすぎないことが特徴だった。取組の技術的なポイントを押さえつつ、率直な評価やユーモアを交えて語る。その一方で、力士の立ち合いや取り口に問題があれば、遠慮せずに指摘する姿勢もあった。
2000年からNHK専属解説者となった舞の海秀平との掛け合いも人気を集めた。スポニチの報道によると、舞の海は当初、北の富士から「話しかけてくるなよ」と言われても、経験を聞くために話しかけ続けたという。やがて2人のやり取りは大相撲中継の名物となった。
現役時代を知る元横綱と、独自の視点を持つ元小結。世代や体格、相撲経験の異なる2人が意見を交わすことで、取組の見方に広がりが生まれた。
2015年、白鵬への「子供でも分かる」発言
北の富士の率直な解説を象徴する出来事として、2015年5月場所12日目の白鵬と豪栄道の一番が挙げられる。
この取組では、大関・豪栄道が横綱・白鵬を首投げで破った。土俵際で両者の体がもつれた際、白鵬の右肘が先に土俵外についたため、勝敗をめぐって注目が集まった。しかし物言いはつかなかった。
取組後、白鵬は土俵上で礼をせず、土俵下でもしばらく立ち尽くした。その様子を見ていた北の富士は、NHK中継で次のようにコメントした。
「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」
この発言は、勝負の判定そのものだけでなく、際どい一番の後に見せた横綱の振る舞いに対する厳しい評価として報じられた。日刊スポーツも当時の解説内容と取組後の状況を伝えている。
北の富士の解説が支持された理由は、現役力士への批判を避けなかったことだけではない。勝負の技術、土俵上の礼儀、横綱としての振る舞いを切り分けて説明できる点にあった。
2021年にはNHK放送文化賞を受賞
長年の放送活動は、2021年のNHK放送文化賞受賞にもつながった。
北の富士は、現役時代の実績だけでなく、引退後も相撲の魅力を視聴者へ伝え続けた人物だった。NHKの解説席で見せた着物姿や、舞の海との軽妙なやり取りも、多くの相撲ファンに記憶されている。
相撲の技術を知る元横綱でありながら、視聴者と同じ目線で驚き、笑い、時には厳しく語る。その距離感が、長年にわたって親しまれた理由の一つだった。
【晩年と逝去】北の富士はいつ亡くなった?最期まで残した功績
2023年春場所から解説出演を休止
晩年の北の富士は、体調を崩したことからNHK大相撲中継への出演を見送るようになった。
スポニチの報道によると、2023年春場所から療養のため解説を休止。長年、放送席で相撲を語り続けてきた人物の姿が見られなくなり、復帰を望む声も寄せられていた。
2024年7月の名古屋場所初日には、NHK中継にVTRで出演した。久しぶりに姿を見せたことで復帰への期待もあったが、再び体調を崩し、療養生活を送っていた。
2024年11月12日、82歳で逝去
北の富士勝昭は、2024年11月12日、療養中だった東京都内の病院で82歳で亡くなった。訃報は同月20日に明らかになり、翌21日のNHK大相撲中継でも追悼の時間が設けられた。
NHK大阪放送局長は、北の富士の解説について、率直でユーモアを交え、時には厳しく、時には温かい言葉で現役力士の取組を伝えていたと振り返った。
また、NHKの実況を担当していた三瓶宏志アナウンサーから聞いた話として、北の富士は十両昇進や初優勝、横綱昇進など、土俵人生の大きな節目を大阪で迎えることが多く、大阪を好んでいたというエピソードも紹介された。
北の富士の死去は、単に元横綱を一人失ったという出来事ではなかった。昭和の大相撲を知る解説者、2人の横綱を育てた師匠、そしてテレビ中継を通して相撲の魅力を伝えてきた人物との別れでもあった。
北の富士の功績は2026年現在も語り継がれる
2026年現在、北の富士は故人であり、現役の解説者として活動しているわけではない。しかし、その功績は複数の分野に残されている。
- 力士として:第52代横綱として幕内優勝10回を達成。
- 指導者として:千代の富士と北勝海の2横綱を育成。
- 相撲協会の運営者として:審判部長や広報部長などを歴任。
- 放送解説者として:1998年から長年NHK大相撲中継を支え、2021年にNHK放送文化賞を受賞。
このように、北の富士の人物像を理解するには、現役時代の優勝回数だけを見るのでは不十分だ。力士として結果を残し、親方として後進を育て、解説者として相撲文化を伝えた。その一連の活動こそが、北の富士勝昭という人物の大きな価値である。
【よくある疑問を解消】北の富士に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士の本名と出身地はどこですか?
A1:本名は竹沢勝昭です。日本相撲協会の公式プロフィールでは北海道旭川市出身とされています。出生地は北海道網走郡美幌町で、幼少期には留萌、その後は旭川で育ちました。
Q2:北の富士は第何代の横綱ですか?
A2:第52代横綱です。1970年初場所後に玉の海と同時昇進し、同年3月場所から横綱として土俵に上がりました。
Q3:北の富士の生涯戦歴と幕内優勝回数は?
A3:日本相撲協会の公式記録では、生涯戦歴786勝427敗69休(105場所)、幕内優勝10回です。幕内戦歴は592勝294敗62休となっています。
Q4:北の富士はなぜ出羽海部屋から九重部屋へ移籍したのですか?
A4:1967年、元横綱千代の山の九重親方が出羽海部屋から独立した際、大関だった北の富士も同行したためです。部屋の後継者をめぐる事情が背景にありました。
Q5:北の富士と千代の富士はどのような関係でしたか?
A5:もともとは同じ九重部屋に所属する兄弟弟子でした。北の富士が九重部屋を継承したことで師弟関係となり、千代の富士の大関・横綱昇進を支えました。北の富士は北勝海も育てています。
Q6:北の富士はいつ亡くなりましたか?
A6:2024年11月12日です。82歳でした。療養中だった東京都内の病院で亡くなり、訃報は同月20日に公表されました。
Q7:北の富士はNHKの相撲解説をいつまで担当していましたか?
A7:1998年春場所から長年にわたってNHK大相撲中継の解説を担当しました。2023年春場所から療養のため出演を休止し、2024年7月の名古屋場所初日にはVTR出演しています。
まとめ:北の富士勝昭が大相撲に残したもの
北の富士勝昭の生涯は、北海道で育った一人の少年が、努力と転機を重ねて第52代横綱へ上り詰めた物語だった。
14歳で出羽海部屋に入門し、1966年に大関へ昇進。1967年には九重部屋へ移籍し、1970年には玉の海と横綱同時昇進を果たした。幕内優勝10回、生涯戦歴786勝427敗69休という記録は、力士としての実力を示している。
しかし、北の富士の功績は土俵上の数字だけではない。引退後は九重部屋を継承し、千代の富士と北勝海という2人の横綱を育てた。さらに、NHK大相撲中継では約四半世紀にわたって解説を務め、技術的な知識と率直な語り口で幅広い視聴者に相撲の魅力を伝えた。
2024年11月12日に82歳で亡くなった北の富士だが、2026年現在もその記録、育てた横綱、そして数々の名解説は大相撲の歴史を振り返るうえで欠かせない。
北の富士勝昭は、横綱として勝ち、師匠として育て、解説者として伝えた人物だった。その三つの功績を合わせて見ることで、第52代横綱が大相撲の歴史に残した本当の大きさが見えてくる。