日本対中国を日中関係の歴史で読み解く|友好協会の1950年設立と1966年分裂の全貌
「日本対中国」という言葉から、スポーツの試合や両国の戦力比較を思い浮かべる人は少なくない。しかし、日中関係の歴史をたどると、もう一つ知っておきたい重要なテーマがある。それが、1950年に設立された日本中国友好協会と、1966年に発生した組織分裂の経緯だ。現在も複数の団体が日中友好協会の名称を掲げて活動しており、その背景には戦後日本の政治、国際情勢、そして中国との民間交流をめぐる考え方の違いがあった。
特に注目したいのは、分裂当時の事務所が置かれていた善隣学生会館に残った組織の系譜である。東京都台東区浅草橋に本部を置く日本中国友好協会、機関紙『日中友好新聞』、日本共産党との歴史的な関係を整理すると、現在の日中友好交流団体がどのように成立したのかが見えてくる。2026年の視点から、1950年の設立目的、1966年の分裂理由、現在の2つの全国組織までを時系列で解説する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 設立の背景:日本中国友好協会は1950年10月1日、日中両国民の相互理解と友好、平和の実現を目的に結成された。
- 分裂の理由:1966年、文化大革命や中ソ対立、ベトナム戦争を背景とした日本共産党と中国共産党の関係悪化が、協会内部の対立にも波及した。
- 現在の組織:分裂後の2つの系統は現在も別団体として活動し、『日中友好新聞』と『日本と中国』という異なる機関紙を発行している。
【日本対中国の歴史】スポーツ対戦では見えない日中関係と民間交流

日本対中国という検索キーワードには、サッカー、野球、バスケットボールなどの国際試合を調べる意図もある。しかし、歴史的な日中関係という観点では、両国の政府間外交だけでなく、民間団体が担ってきた交流の役割も欠かせない。
日本中国友好協会が結成された1950年は、中華人民共和国が成立した1949年の翌年にあたる。当時、日本と中華人民共和国の間には正式な国交がなく、政府間の交流にも大きな制約があった。そのような状況で、民間人による交流や相互理解の促進を目指す団体が設立されたのである。
公益財団法人日本国際問題研究所が公開する日中友好団体の機関誌アーカイブでは、1972年の日中国交正常化以前から、さまざまな友好団体が民間交流を進めていたことが紹介されている。外交関係が十分に整っていない時代に、民間交流は両国を結ぶ重要な接点だった。
したがって、日本対中国というテーマを日中友好協会の歴史から理解する場合、単純な対立構造だけでは全体像を把握できない。戦争の記憶をどう受け止めるか、中国との関係をどのように築くか、民間交流を誰がどのような理念で進めるかという問題が、長年にわたって関係してきた。
【1950年設立】日本中国友好協会の目的と設立当初の活動

10月1日に結成された民間交流団体

日本中国友好協会の結成大会は、1950年10月1日、東京・一ツ橋の教育会館で開催された。中華人民共和国の成立からちょうど1年後にあたる。
設立の中心的な理念は、日中両国民の相互理解と友好を深め、アジアと世界の平和に貢献することだった。日本の中国侵略戦争の歴史を反省し、両国が再び戦争を起こさないという「日中不再戦」も、創立以来の重要な理念として掲げられている。
協会の活動は、単なる文化交流に限定されていなかった。戦争によって生じた問題への対応や、国交正常化を求める運動など、戦後処理と外交の両面に関係していた。
帰国支援や遺骨送還から文化交流まで
設立直後の代表的な取り組みの一つが、中国に残されていた日本人の帰国支援である。協会は日本赤十字社などと協力し、在華邦人の帰国実現に取り組んだ。協会の沿革によると、1953年3月に中国紅十字会との帰国協定が結ばれ、1958年までに21次にわたる集団帰国が行われ、帰国者は合計3万人を超えた。
もう一つの重要な活動が、日本に強制連行され、国内で亡くなった中国人の遺骨送還だった。1953年には中国人殉難者慰霊実行委員会が発足し、1964年まで9回にわたって遺骨送還に取り組んだ。
文化面では、1955年の市川猿之助歌舞伎一座の中国公演、1956年の梅蘭芳ら中国京劇団の日本公演などが代表例として挙げられる。政治的な国交が整わない中でも、芸術や文化を通じて交流の機会を広げていった。
1964年には日中国交回復3000万署名運動を開始。1965年には青年交流も進められ、協会は民間の立場から日中国交正常化を後押しした。実際に国交が正常化したのは1972年9月であり、その後も1978年の日中平和友好条約締結へと関係が進展していく。
これらの活動から分かるのは、日中友好協会が当初から、外交問題だけを扱う組織ではなかったということだ。帰国支援、戦争犠牲者の慰霊、文化事業、青年交流など、生活や社会に密接した幅広い分野を活動の対象としていた。
【1966年の分裂】日中友好協会はなぜ2つに分かれたのか
背景にあった日本共産党と中国共産党の対立
日中友好協会の歴史における最大の転換点が、1966年の組織分裂である。
この問題を理解するには、当時の国際共産主義運動を取り巻く状況を知る必要がある。1960年代には中国とソ連の対立が深まり、ベトナム戦争をめぐっても各国の共産党や社会主義陣営の立場が分かれていた。
日本共産党と中国共産党の関係も悪化した。法政大学大原社会問題研究所の歴史資料では、1966年3月の両党間の協議決裂と、その後の日本共産党による自主独立路線の確立が、関連する社会運動団体の分裂にも影響したことが整理されている。
日中友好協会内部でも、中国共産党や毛沢東の政治路線、文化大革命への対応をめぐって意見が対立した。
一方には、日本の友好運動は日本の市民や団体が自主的に判断して進めるべきだという立場があった。他方には、中国との関係や中国側の政治的立場を重視するグループが存在した。
つまり、単なる人事や運営方法をめぐる争いではなかった。友好運動の自主性を優先するのか、中国の政治路線との連帯を重視するのかという、組織の基本方針をめぐる対立だったのである。
1966年10月に組織が分裂
1966年10月には、日中友好協会の代表団と中国側の中日友好協会代表団が共同声明を発表した。この声明や文化大革命への評価をめぐる対立が、組織内の亀裂を深めた。
公益財団法人日本国際問題研究所の川島真・東京大学教授による解説では、分裂の背景としてベトナム戦争、中ソ対立、日本共産党と中国共産党の関係悪化が挙げられている。また、1966年10月25日の常任理事会をめぐる記録も紹介されている。
その後、協会は異なる方針を持つ2つの系統に分かれた。中国との交流を重視して日本共産党と距離を取る側は「日中友好協会(正統)」を名乗り、もう一方は従来の協会の組織と機関紙を引き継ぐ形で活動を続けた。
この分裂は一時的な運営上の問題では終わらず、その後の機関紙、組織運営、対中交流の方針にも影響を残した。
【善隣学生会館に残った組織】日中友好新聞と日本共産党との関係
分裂後も会館にとどまった組織の特徴
1966年の分裂を考えるうえで重要なのが、当時の事務所が置かれていた善隣学生会館である。
分裂後、日本共産党の自主独立路線に近い立場を取った組織は、従来の事務所があった善隣学生会館に残った。これに対し、中国との交流を重視したグループは会館を離れ、「日中友好協会(正統)」を結成した。
公益財団法人日本国際問題研究所の機関誌アーカイブも、分裂後の日本共産党系統の協会が『日中友好新聞』を発行し続け、中国共産党との関係を重視した側が『日本と中国』を刊行したと整理している。
この点は、現在の2団体を見分けるうえでも重要だ。善隣学生会館に残った側の系譜は、現在の東京都台東区浅草橋に本部を置く日本中国友好協会につながっている。
日中友好新聞が示す組織の継続性
『日中友好新聞』は、日中友好協会の活動や日中関係、中国の政治・社会・文化に関する情報を伝える機関紙である。
現在の日本中国友好協会の公式サイトでも、機関紙の購読案内や過去の記事のアーカイブが公開されている。2020年1月には第2500号を発行したことが協会の沿革に記録されており、長期にわたる刊行の歴史を持つ。
同協会の規約では、日中不再戦や平和擁護、文化事業、中国事情の研究紹介、日中両国の人事・文化・芸術・学術・経済・スポーツなどの交流が活動分野として定められている。2026年6月7日採択の規約にも、こうした基本方針が記されている。
日本共産党との関係はどう理解すべきか
日本共産党と日中友好協会の関係については、歴史的な政治路線と、現在の団体運営を分けて理解する必要がある。
1966年の分裂について、研究機関の歴史整理では、善隣学生会館に残った側を日本共産党系統の協会と位置づけている。これは当時の日本共産党と中国共産党の対立に対する立場を説明するものである。
ただし、歴史的に日本共産党に近い系統に属していたという説明と、現在の協会を日本共産党そのもの、あるいは党の一部とみなすことは同じではない。現行規約では、会員による組織運営や文化・交流活動の目的が定められており、団体としての活動内容を確認するには公式規約や事業情報を見る必要がある。
なお、1967年には善隣学生会館を舞台に、学生寮自治会と協会側の対立が深刻化した。国立国会図書館の書誌情報にも、当時の事件を扱った双方の声明や関連資料が記録されている。会館をめぐる問題は、政治的な対立が実際の施設運営や在日中国人学生との関係にも波及した事例として、当時の資料に残されている。
善隣学生会館そのものは、後に日中友好会館の設立事業へとつながった。国立公文書館アジア歴史資料センターの調査資料によると、財団法人善隣学生会館は1983年に財団法人日中友好会館へ改組・改称している。したがって、1966年に会館に残った協会と、現在の会館施設の運営法人は区別して考える必要がある。
【現在の2団体を比較】日中友好協会と公益社団法人日本中国友好協会の違い
2026年現在、1966年の分裂につながる2つの系統は、それぞれ独立した団体として活動を続けている。名称がよく似ているため混同されやすいが、本部所在地や機関紙、歴史的な立場を比較すると違いが分かる。
特に注意したいのは、両団体がそれぞれ1950年の結成を自らの歴史の出発点としていることだ。これは別々に1950年に設立された2つの団体という意味ではなく、同じ協会の歴史を引き継ぐ異なる系統が、1966年以降に併存しているということである。
| 比較項目 | 日本中国友好協会 | 公益社団法人日本中国友好協会 |
|---|---|---|
| 歴史的な系統 | 善隣学生会館に残った側 | 分裂後に会館を離れた「正統」系統 |
| 分裂時の政治的立場 | 日本共産党系統と位置づけられる | 中国との交流を重視し、日本共産党と距離を取った系統 |
| 現在の名称 | 日本中国友好協会(略称・日中友好協会) | 公益社団法人日本中国友好協会 |
| 本部所在地 | 東京都台東区浅草橋5-2-3 鈴和ビル5階 | 東京都台東区駒形1-5-6 金井ビル5階 |
| 主な機関紙 | 『日中友好新聞』 | 『日本と中国』 |
| 主な活動分野 | 中国文化の紹介、太極拳、中国語、不再戦平和活動、民間交流など | 青少年交流、中国語スピーチ大会、大学生訪中団、文化交流など |
| 組織の形態 | 日本中国友好協会 | 公益社団法人 |
この比較から分かるように、2団体は名称だけでなく、歴史的な分裂の経緯や機関紙にも違いがある。特に『日中友好新聞』と『日本と中国』は、それぞれの組織の歴史を理解するための重要な手がかりだ。
また、現在の本部所在地はいずれも東京都台東区内だが、浅草橋と駒形で異なる。善隣学生会館に残ったという歴史的事実を、そのまま2026年の本部所在地と混同しないことも大切である。
なお、上記は1966年の分裂後に続く2つの全国組織の比較であり、各都道府県の日中友好協会や地域連合会など、個別の地域組織の存在を否定するものではない。
【2026年の活動】日中友好協会は現在どのような交流を行っているのか
文化や教育を通じた草の根交流
2026年現在、日中友好協会の各系統は、歴史的な政治対立を経ながらも、それぞれの方針に基づいた民間交流を続けている。
浅草橋に本部を置く日本中国友好協会では、中国語や太極拳などの文化活動、中国事情の研究、日中戦争の歴史を伝える不再戦平和活動、在日中国人や中国からの帰国者への支援などを活動分野としている。
一方、公益社団法人日本中国友好協会は、全国の都道府県や地域の友好団体と協力し、大学生訪中団、中国語スピーチコンテスト、日中友好交流会議、奨学金などの事業を展開している。公式サイトでは会報『日本と中国』を通じた情報発信も続いている。
外交と民間交流は同じではない
日中関係を考える際には、政府間外交と民間交流を分けて見ることが欠かせない。外交上の問題が発生した場合でも、文化や教育、地域交流を通じた市民同士の関係まで、必ずしも同じ速度で変化するわけではないからだ。
日中友好協会の歴史は、政府間の関係が十分に整っていなかった1950年代から、1972年の国交正常化、1978年の日中平和友好条約、そして現在に至るまで、民間交流がどのように続いてきたかを知る手がかりになる。
また、同じ「日中友好」を掲げていても、団体によって歴史認識や政治的立場、交流事業の進め方は異なる。団体の活動を調べる場合は、名称だけで判断せず、公式の沿革、規約、機関紙、現在の事業内容を確認することが重要だ。
【日本対中国・日中友好協会】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:日本中国友好協会はいつ設立された?
A1:1950年10月1日、東京・一ツ橋の教育会館で結成された。中華人民共和国成立の翌年にあたり、日中両国民の相互理解と友好、平和の実現を目的として発足した。
Q2:日中友好協会が1966年に分裂した理由は?
A2:文化大革命への評価や中国との交流方針をめぐる対立が背景にある。中ソ対立やベトナム戦争を背景に、日本共産党と中国共産党の関係が悪化し、その政治的な対立が協会内部にも波及した。
Q3:善隣学生会館に残ったのはどちらの団体?
A3:日本共産党系統と位置づけられる側で、現在の東京都台東区浅草橋に本部を置く日本中国友好協会につながる系統である。機関紙として『日中友好新聞』を発行している。
Q4:現在の日中友好協会は2つある?
A4:1966年の分裂に由来する全国組織として、現在は日本中国友好協会と公益社団法人日本中国友好協会の2つの系統がある。前者は『日中友好新聞』、後者は『日本と中国』を発行している。
Q5:日本共産党と日中友好協会はどのような関係?
A5:1966年の分裂時、日本共産党の自主独立路線に近い立場を取った系統が善隣学生会館に残ったと、研究機関の歴史資料で整理されている。ただし、歴史的な政治路線と現在の団体の法人格や運営形態は区別して理解する必要がある。
Q6:善隣学生会館は現在も日中友好協会の本部なの?
A6:現在の本部ではない。善隣学生会館は1983年に財団法人日中友好会館へ改組・改称されている。現在の日本中国友好協会の本部は東京都台東区浅草橋にある。
まとめ:日本対中国を理解する鍵は1950年から続く民間交流の歴史
日本対中国というテーマを日中関係の歴史から読み解くと、1950年の日本中国友好協会設立が重要な出発点として浮かび上がる。
同協会は、戦争の反省と平和への願いを背景に誕生し、在華邦人の帰国支援、中国人殉難者の遺骨送還、文化交流、国交正常化を求める活動などに取り組んできた。
しかし、1966年には文化大革命や中ソ対立を背景とした日本共産党と中国共産党の関係悪化が協会内部にも波及し、組織が分裂した。善隣学生会館に残った側は『日中友好新聞』を発行する系統となり、会館を離れた側は「日中友好協会(正統)」を名乗り、『日本と中国』を刊行する系統となった。
2026年現在も、この2つの系統はそれぞれ別の団体として活動を続けている。東京都台東区浅草橋の日本中国友好協会と、駒形に本部を置く公益社団法人日本中国友好協会は、同じ1950年の歴史を出発点としながら、異なる組織的経緯を持つ。
【プロの結論】日中友好協会の歴史を理解するうえで重要なのは、1950年の設立、1966年の分裂、善隣学生会館に残った組織の系譜、そして現在の2団体を一続きの歴史として捉えることだ。日本共産党との関係を含め、当時の政治的背景と現在の活動を混同しないことが、正確な理解につながる。
日中関係は政府間外交だけで決まるものではない。文化、教育、地域社会、歴史認識など、さまざまな接点を通じて民間交流が積み重ねられてきた。日本中国友好協会の歩みは、日本と中国の関係を単なる対立や友好という二つの言葉だけでは説明できないことを示している。
編集上の重要な補足: 1966年の分裂については、両団体それぞれの公式沿革に異なる説明があります。上の記事では、日本国際問題研究所の川島真教授による機関誌アーカイブの歴史整理を軸に、両者の系譜を区別しています。