三重ノ海剛司の現在は?第57代横綱の経歴と優勝3回、引退後の歩みを徹底解説
三重ノ海とは、第57代横綱として活躍した三重ノ海剛司(みえのうみ・つよし)のことです。本名は石山五郎。1948年2月4日、三重県松阪市に生まれ、出羽海部屋から角界入りしました。大関からの陥落と復帰、31歳での横綱昇進、幕内優勝3回という波乱に富んだ力士人生で知られています。
2026年11月現在、78歳となった三重ノ海は、すでに日本相撲協会の役職を退いています。引退後は武蔵川部屋を創設し、横綱武蔵丸や大関武双山、出島、雅山らを育成。さらに日本相撲協会の理事長や相撲博物館館長も務めました。2025年11月には近況を伝えるインタビューも掲載され、現在の暮らしや家族、相撲への思いが明らかになっています。
この記事では、日本相撲協会の公式記録、本人が語った回顧録、近年の報道をもとに、三重ノ海の生い立ちから横綱昇進、大関陥落からの復活、引退理由、親方としての功績、2026年の現在までを詳しく整理します。
📌 この記事の重要ポイントまとめ - 人物の正体: 三重ノ海剛司は第57代横綱。本名は石山五郎で、三重県松阪市出身。 - 現役時代の実績: 大関陥落から復帰して横綱に昇進。幕内優勝3回、横綱在位8場所。 - 引退後の功績: 武蔵川部屋を創設し、武蔵丸ら多くの名力士を育成。2008年には日本相撲協会理事長に就任。 - 2026年の現在: 2023年に相撲博物館館長を退任。2025年の報道では、相撲中継を楽しみながら穏やかな生活を送る様子が紹介された。 - 家族について: 1974年に洋子夫人と結婚し、2人の息子に恵まれた。
【三重ノ海とは何者?】本名・年齢・出身地と基本プロフィール

三重ノ海は、昭和後期の大相撲を代表する横綱の一人です。
1970年代後半から1980年にかけて活躍し、輪島、北の湖、2代目若乃花、貴ノ花ら強豪がひしめく時代に最高位まで上り詰めました。
特に知られているのは、いったん大関から陥落しながら、再び大関に戻り、最終的には横綱に昇進したという異例の経歴です。
三重ノ海剛司のプロフィール
日本相撲協会の歴代横綱プロフィールによると、基本情報は次のとおりです。
三重ノ海 剛司
みえのうみ・つよし
1948年2月4日生まれ

2026年11月現在・78歳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 石山五郎 |
| 出身地 | 三重県松阪市 |
| 所属部屋 | 出羽海部屋 |
| 身長 | 180.5cm |
| 現役時代の体重 | 136kg |
| 得意技 | 左四つ・寄り切り |
| 初土俵 | 1963年7月場所 |
| 大関昇進 | 1976年1月場所 |
| 横綱昇進 | 1979年9月場所 |
| 引退 | 1980年11月場所 |
| 幕内優勝 | 3回 |
| 通算成績 | 695勝525敗1分56休 |
出典:日本相撲協会公式サイト「歴代横綱」「力士プロフィール」
本名は石山五郎。「三重ノ海」という四股名の由来
三重ノ海の本名は石山五郎です。
1963年7月場所に本名の「石山」で初土俵を踏み、その後「三重ノ海」という四股名を名乗るようになりました。
四股名には出身地である三重県の名前が含まれており、郷土とのつながりを感じさせます。
日本相撲協会の公式記録でも、しこ名履歴は「石山→三重ノ海」と記載されています。
なお、引退後に名乗った年寄名は武蔵川で、親方としての名前は武蔵川晃偉(むさしがわ・あきひで)でした。現役時代の四股名と引退後の親方名を混同しないことが大切です。
【経歴と生い立ち】松阪の苦労人から出羽海部屋の横綱へ
三重ノ海の相撲人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
日本相撲協会が2022年12月に公開した大相撲クイズでは、本人の生い立ちについても紹介されています。
8人きょうだいの末っ子として生まれた少年時代
三重県松阪市で生まれた石山五郎は、8人きょうだいの末っ子でした。
中学1年生のときに父親を亡くし、母子家庭となります。生活は苦しく、相撲界に入る前から経済的な困難を経験していました。
中学校を卒業した後は、集団就職で東京へ移り、アルミニウム工場に勤務します。しかし、その後地元の松阪へ戻り、知人の紹介などをきっかけに出羽海部屋への入門を目指しました。
本人が2021年にベースボール・マガジン社のインタビューで語ったところによると、中学1年生のころにはすでに出羽海部屋の関係者と接点がありました。
当時は身長が足りず、入門への道は簡単ではありませんでした。
最終的には1963年7月の名古屋場所で新弟子検査に合格。本名の石山として土俵に上がりました。
出羽海部屋での厳しい稽古が負けん気を育てた
入門当時の出羽海部屋は、80人を超える力士が所属する大所帯でした。
三重ノ海本人の回顧によると、若いころは朝4時半に起き、早く土俵に下りなければ十分に稽古できない環境だったといいます。
相撲経験がほとんどなかった三重ノ海は、入門当初から実力者だったわけではありません。
同世代の旭國らに出世で先行され、序二段から上がるまでにも2年ほどかかりました。
それでも稽古を重ね、1967年9月場所には三段目優勝を達成。1969年3月場所に新十両、同年9月場所には新入幕を果たしました。
本人が振り返った当時の経験からは、早い段階で注目された天才型ではなく、努力と工夫によって実力を積み上げた力士だったことが分かります。
大鵬を破って大関候補に浮上、しかし肝炎に苦しむ
三重ノ海が一躍注目を集めたのは、1970年7月場所です。
新小結として出場し、大横綱・大鵬を破りました。
この一番によって大関候補として名前が挙がるようになります。
しかし、その後は肝炎を患い、思うように成績を残せない時期が続きました。
体調管理に努めながら復調を目指し、1975年11月場所で東関脇として13勝2敗を記録。これが自身初の幕内最高優勝となります。
場所後の1976年1月場所には、念願の大関昇進を果たしました。
【大関陥落から横綱昇進へ】三重ノ海の優勝3回と歴史的な復活
三重ノ海の力士人生を語るうえで、最も重要なのが大関陥落からの復活です。
一度大関に昇進しながら、左足首の故障によってわずか3場所で陥落。その後、特例で大関に復帰し、最終的には横綱にまで上り詰めました。
大関から3場所で陥落、翌場所で10勝して復帰
1976年1月場所に新大関となった三重ノ海でしたが、左足首の負傷によって3月場所と5月場所で苦戦します。
2場所連続の負け越しとなり、大関の地位を失いました。
当時の大関復帰制度では、陥落直後の場所で関脇として10勝以上を挙げれば、大関に復帰できる特例が設けられていました。
三重ノ海は1976年7月場所で10勝5敗を記録し、見事に大関へ返り咲きます。
この復活は、その後の横綱昇進につながる大きな転換点でした。
日刊スポーツも2017年1月の記事で、三重ノ海を大関陥落後に復帰し、さらに横綱まで昇進した力士として紹介しています。
1979年の横綱昇進はどのように決まったのか
大関復帰後も、三重ノ海はすぐに横綱になったわけではありません。
再昇進後は勝ち星が安定せず、2度のカド番も経験しました。一時は大関としての力量を疑問視する声もあったと、日本相撲協会の人物紹介は伝えています。
転機となったのが、1979年です。
- 1979年5月場所:13勝2敗
- 1979年7月場所:14勝1敗
- 7月場所の優勝決定戦:輪島に敗れる
- 1979年9月場所:第57代横綱に昇進
5月場所では13勝を挙げ、7月場所では14勝1敗という圧倒的な成績を残しました。
優勝決定戦では輪島に敗れたものの、優勝同点という好成績が評価され、横綱に推挙されました。
昇進時は31歳。初土俵から97場所を要した遅咲きの横綱でした。
この記録は、長い下積みと度重なる故障を乗り越えた三重ノ海の特徴を象徴しています。
幕内優勝3回の内訳と成績
三重ノ海の幕内最高優勝は合計3回です。
| 優勝場所 | 番付 | 成績 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 1975年11月 | 東関脇 | 13勝2敗 | 初優勝 |
| 1979年11月 | 西横綱 | 14勝1敗 | 横綱として初優勝 |
| 1980年1月 | 東横綱 | 15勝0敗 | 全勝優勝 |
出典:日本相撲協会公式プロフィール、大相撲記録資料。
特に注目したいのは、横綱昇進後の2場所連続優勝です。
1979年11月場所で14勝1敗、翌1980年1月場所では15戦全勝を達成しました。
横綱としての在位は8場所と短かったものの、その間に2度の優勝を果たしています。
また、通算成績は695勝525敗1分56休。殊勲賞5回、敢闘賞1回、技能賞3回という受賞歴も残しています。
三重ノ海の主な経歴と関係者一覧
三重ノ海の歩みを理解するには、本人の番付変遷だけでなく、師匠や後進との関係も重要です。
このように、三重ノ海のキャリアは、本人の現役時代だけで完結しません。出羽海部屋で培った経験が、武蔵川部屋での後進育成へと引き継がれていきました。
【引退理由と真相】横綱在位8場所で土俵を去った背景
幕内優勝3回、横綱として2場所連続優勝という輝かしい成績を残した三重ノ海ですが、横綱としての現役生活は長くありませんでした。
引退場所は1980年11月場所です。
引退の背景には故障と体力の低下があった
横綱昇進後の三重ノ海は、1979年11月場所と1980年1月場所で連続優勝を達成しました。
しかし、その後は故障や体調不良による休場が目立つようになります。
古傷の左肘の悪化なども重なり、横綱として安定して15日間を戦うことが難しくなりました。
1980年3月場所では途中休場し、5月場所を最後に皆勤できない状態が続きます。
そして、2場所連続休場後に迎えた11月場所では初日から2連敗。3日目に現役引退を表明しました。
当時32歳9か月。横綱在位はわずか8場所でした。
引退は不名誉な結果だったのか
三重ノ海の引退を、単に横綱として力が衰えた結果と捉えるのは正確ではありません。
大関時代の陥落から復帰、横綱昇進、そして連続優勝まで、長い時間をかけて自身の相撲を完成させてきた人物です。
特に1979年から1980年初頭の活躍は、当時の大相撲でも印象的なものでした。
一方、横綱には休場が続いた場合でも責任ある判断が求められます。度重なる故障と体力の低下が重なったことで、現役続行が難しくなったと考えられます。
短い横綱在位だけを切り取るのではなく、横綱に到達するまでの16年以上の歩みと、横綱昇進後の実績を合わせて評価する必要があります。
【武蔵川親方時代】武蔵丸や武双山を育てた指導者としての功績
1980年11月場所で引退した三重ノ海は、年寄山科を経て武蔵川を襲名しました。
現役時代の実績を背景に、今度は指導者として相撲界を支える立場になります。
1981年に武蔵川部屋を創設
1981年、三重ノ海は出羽海部屋から独立し、第14代武蔵川親方として武蔵川部屋を創設しました。
その後、約27年間にわたって師匠を務め、多くの関取を育て上げます。
武蔵川部屋の公式沿革によると、主な育成実績は次のとおりです。
- 横綱:武蔵丸
- 大関:武双山、出島、雅山
- 小結:和歌乃山、垣添
- 幕内力士:大輝煌、武雄山、武州山、翔天狼、剣武
- 十両力士:重ノ海、武哲山
特に第67代横綱・武蔵丸の育成は、三重ノ海の指導者人生を代表する功績です。
自身が横綱になるまでに苦労した経験を持つ三重ノ海は、若い力士を育てる側に回り、強豪力士を次々と輩出しました。
武蔵丸と三重ノ海の関係
武蔵丸は、三重ノ海が師匠を務めた武蔵川部屋から横綱へ昇進した力士です。
三重ノ海の指導のもとで成長し、1999年7月場所に横綱へ昇進しました。
三重ノ海自身は横綱在位8場所でしたが、武蔵丸は長く横綱を務め、武蔵川部屋の名声を高めました。
この師弟関係は、三重ノ海の指導者としての実績を語るうえで欠かせません。
武蔵川部屋は現在どうなっている?
ここは検索で混同されやすいポイントです。
三重ノ海が創設した武蔵川部屋は、2010年9月に元大関・武双山の藤島親方へ継承されました。その際、部屋の名称も藤島部屋へ変更されています。
その後、2013年2月に三重ノ海は日本相撲協会を定年退職し、年寄名跡を元横綱・武蔵丸へ譲りました。
そして同年4月1日、武蔵丸が第15代武蔵川として新たに武蔵川部屋を設立しました。
つまり、現在の武蔵川部屋は、三重ノ海が直接運営している部屋ではありません。
三重ノ海が築いた部屋の歴史を、武蔵丸が受け継いで新たに発展させているという関係です。
日本相撲協会理事長への就任と辞任
三重ノ海は親方としての実績を評価され、2008年9月に第10代日本相撲協会理事長へ就任しました。
元横綱として協会のトップに立ち、相撲界の運営を担うことになります。
しかし、2010年には大相撲の野球賭博問題が発生しました。
弟子の雅山が問題に関与したとして監督責任を問われ、三重ノ海自身も謹慎処分を受けています。
さらに、当時は胃がんの手術を受けた直後でもありました。
2010年8月12日、三重ノ海は理事長を辞任。後任には放駒親方(元大関・魁傑)が選ばれました。
この辞任には、相撲界の不祥事に対する監督責任と本人の健康問題という複数の背景がありました。
【三重ノ海の現在2026】相撲博物館館長退任後の生活と近況
2026年11月現在、三重ノ海は78歳です。
現在の肩書や生活を理解するうえで重要なのが、相撲博物館館長の退任と、2025年に掲載された近況インタビューです。
相撲博物館館長は2023年2月に退任
2013年2月に日本相撲協会を定年退職した三重ノ海は、同年から相撲博物館館長を務めていました。
館長として約10年間、相撲の歴史や文化を伝える仕事に携わりました。
しかし、2023年2月3日付で館長を退任しています。
日本相撲協会が2023年1月26日に公表した理事会発表事項にも、石山五郎氏の退任が記載されています。
退任後は八角理事長(元横綱・北勝海)が館長代行を務めることになりました。
地元紙の夕刊三重も、退任当日の2023年2月3日に、三重ノ海が相撲協会から完全に離れることを報じています。
したがって、2026年現在、三重ノ海を現職の相撲博物館館長や日本相撲協会理事長として紹介するのは正確ではありません。
2025年11月の近況報道で明らかになった現在の暮らし
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「元横綱・三重ノ海剛司さんは邸宅で毎日のんびりの日々」2025年11月17日
2025年11月17日、日刊ゲンダイDIGITALが三重ノ海の近況を紹介しました。
取材時の三重ノ海は、東京都文京区の自宅で夫人と暮らしており、協会退職後は比較的ゆったりとした生活を送っていると伝えられています。
記事で紹介された日常の様子は次のとおりです。
- 朝は7時ごろに起床する。
- 自宅で自転車をこいで体を動かす。
- テレビでニュースやスポーツ番組を見る。
- 大相撲の本場所中はNHK BSの中継を楽しむ。
- 大リーグなど海外スポーツにも関心を持っている。
- 通院以外の外出は比較的少ない。
また、かつての弟子たちが独立して部屋を運営していることにも関心を寄せています。
武蔵丸の武蔵川部屋、武双山の藤島部屋、雅山の二子山部屋など、それぞれの弟子育成の様子を気にかけているそうです。
相撲部屋を訪問して稽古を見ることはあまりないものの、部屋の行事などで元弟子たちと顔を合わせることもあると紹介されています。
健康状態は?過去の病気と近年の報道
三重ノ海は現役時代に急性肝炎を経験し、日本相撲協会理事長時代には胃がんの手術も受けています。
2025年11月の日刊ゲンダイのインタビューでは、相撲博物館館長を退任した後に心不全で倒れた経験も明かしました。
胃がんの手術では胃の3分の1を切除したことにも触れています。
ただし、同じインタビューでは、毎日3食を食べており、取材時点の体調については「体調はいい」と話していました。
この報道から分かるのは、病気を経験しながらも、2025年の取材時点では自宅で日常生活を送っていたということです。
2026年の現在について、新たな詳細な健康情報が公表されたわけではありません。2025年の近況をそのまま現在の医学的な状態とみなすことはできません。
2026年現在も相撲界とのつながりはある?
三重ノ海は日本相撲協会の役職を退いていますが、相撲そのものから完全に関心を失ったわけではありません。
2025年のインタビューでは、本場所の取組をテレビで観戦し、現役力士の相撲について具体的な技術論を語っていました。
特に大の里については、前に出る相撲や、相手の動きに対応する稽古の必要性などを指摘しています。
また、元弟子たちが親方として新しい力士を育てている状況にも関心を持っています。
現役時代、親方時代、協会運営時代を経て、現在は一歩距離を置きながら相撲を見守る立場になったといえます。
【家族と息子】洋子夫人との結婚、長男の現在と孫の活躍
三重ノ海については、現役時代の成績だけでなく、家族や息子の現在を知りたいという検索も見られます。
2025年11月の日刊ゲンダイのインタビューでは、家族についても具体的な情報が紹介されました。
1974年に洋子夫人と結婚、2人の息子がいる
三重ノ海は1974年に洋子夫人と結婚しました。
夫婦の間には2人の息子がいます。
2025年の報道では、現在も夫人と2人で暮らしている様子が紹介されており、夫人が健康を考えた食事を用意していることも伝えられています。
現役時代の肝炎や理事長時代の胃がんなど、健康面で苦労した経験を経て、食生活を大切にしている様子がうかがえます。
長男は元力士で、ちゃんこ店「三重ノ海」を経営
日刊ゲンダイの2025年11月の記事によると、長男は元力士です。
現在は東京都の門前仲町で、ちゃんこ店「三重ノ海」を経営していると紹介されました。
父親と同じ相撲の世界を経験した後、飲食業という別の形で相撲文化とのつながりを持っていることが特徴です。
ただし、長男の詳細な力士時代の成績や経歴については、同記事では詳しく紹介されていません。
孫の嵐翔真はモデルとして活躍
家族についての話題で注目されたのが、孫の嵐翔真(あらし・しょうま)です。
日刊ゲンダイによると、三重ノ海には2男1女、計3人の孫がいます。
そのうち一番年下の孫が、男性ファッション誌『MEN'S NON-NO』の専属モデルオーディションで準グランプリを獲得し、嵐翔真の名前で活動しています。
身長は190cmと紹介されており、モデル・俳優としての将来が期待されています。
三重ノ海は、孫に相撲を強制する考えはなかったと語っています。
本人の言葉からは、若い世代が自分の意思で進路を決めることを尊重する姿勢が伝わってきます。
三重ノ海の人物像は?厳しさと若い世代への考え方
三重ノ海の人物像を知るうえで興味深いのが、2025年のインタビューで語った若い人への助言です。
本人は、自身が15歳で出羽海部屋に入門した際、周囲から特別な期待を受けていたわけではなかったと振り返っています。
それでも5年間は頑張ろうと決め、努力を続けたことが後の成功につながったと語りました。
若い人には、どの分野でも自分のやりたいことを信念を持って3年間続けてほしいという考えを示しています。
また、現代の相撲部屋で弟子を育てる難しさについても言及しました。
昔のような厳しい指導が難しくなり、弟子一人ひとりの性格や育った環境に合わせた指導が求められるという認識です。
これは、現役時代に厳しい稽古環境を経験し、多くの力士を育てた三重ノ海だからこそ語れる視点でしょう。
【三重ノ海に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:三重ノ海の本名は何ですか?
三重ノ海の本名は石山五郎です。1948年2月4日に三重県松阪市で生まれ、1963年7月場所に本名の石山で初土俵を踏みました。
Q2:三重ノ海は何代目の横綱ですか?
第57代横綱です。1979年9月場所に横綱へ昇進しました。横綱在位は8場所で、幕内優勝は合計3回です。
Q3:三重ノ海は大関から陥落したことがありますか?
あります。1976年に左足首の故障などで大関から陥落しましたが、同年7月場所に関脇として10勝を挙げ、大関へ復帰しました。その後、1979年に横綱へ昇進しています。
Q4:三重ノ海の引退理由は何ですか?
古傷の悪化や故障、体力の低下などが重なったためです。1980年11月場所に引退を表明しました。当時32歳9か月でした。
Q5:三重ノ海は現在も武蔵川部屋の親方ですか?
いいえ。2010年に武蔵川部屋を武双山へ継承し、2013年には日本相撲協会を定年退職しています。現在の武蔵川部屋は、元横綱武蔵丸が師匠を務める部屋です。
Q6:三重ノ海は現在何をしていますか?
2025年11月の報道では、夫人と自宅で暮らし、大相撲中継やスポーツ観戦を楽しむ様子が紹介されました。2023年に相撲博物館館長を退任しており、2026年現在は協会の現職ではありません。
まとめ:【プロの結論】三重ノ海の本当の功績は横綱昇進だけではない
三重ノ海剛司は、第57代横綱として幕内優勝3回を達成した名力士です。
しかし、その価値は横綱という地位や優勝回数だけでは測れません。
特に評価すべきなのは、次の3つの実績です。
1. 逆境からの復活: 大関陥落を経験しながら、10勝を挙げて復帰し、31歳で横綱に昇進した。
2. 後進育成への貢献: 武蔵川部屋を創設し、武蔵丸、武双山、出島、雅山らを育てた。
3. 相撲界への長年の貢献: 日本相撲協会理事長や相撲博物館館長を務め、競技の運営と文化の継承に携わった。
2026年現在は78歳。相撲協会の役職を離れていますが、2025年の取材では、元弟子たちの活動や現役力士の取組を気にかける姿が紹介されました。
三重ノ海の人生を正しく理解するには、次の3点を区別することが重要です。
- 現役力士としての三重ノ海: 大関陥落から復活し、横綱として優勝2回を含む実績を残した人物。
- 親方としての三重ノ海: 武蔵川部屋を創設し、多くの名力士を育てた指導者。
- 現在の三重ノ海: 2023年に協会の役職を退き、相撲を見守りながら生活する元横綱。
短い横綱在位の裏側には、長い下積みと故障からの復活、そして次世代へ相撲をつなぐ仕事がありました。
三重ノ海剛司の最大の功績は、自ら横綱になったことだけでなく、横綱を育てる側に回り、相撲界に次の世代を残したことにあるのです。