【人物関係を整理】倍賞美津子とアントニオ猪木はどんな人物だった?
2人の関係を理解するには、結婚前からそれぞれが築いていたキャリアを押さえておきたい。
倍賞美津子:松竹の看板女優として活躍

- 生年月日:1946年11月22日
- 出身:茨城県
- 職業:女優
- 姉:倍賞千恵子
- 映画デビュー:1967年『純情二重奏』
倍賞美津子は、姉の倍賞千恵子を追うように松竹音楽舞踊学校へ進み、1965年に松竹歌劇団(SKD)へ入団した。
1967年には映画『純情二重奏』で映画デビュー。その後、松竹の看板女優として存在感を高めていく。
代表作には、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(1979年)、『楢山節考』(1983年)、『恋文』(1985年)、『うなぎ』(1997年)などがある。
特に『恋文』では日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。映画界で確かな評価を築いてきた実力派だ。
アントニオ猪木:プロレス界を変えた燃える闘魂

- 本名:猪木寛至
- 生年月日:1943年2月20日
- 没年月日:2022年10月1日
- 職業:プロレスラー・政治家
- 代表的な実績:新日本プロレス創設
猪木は1960年にプロレスデビューし、1962年からアントニオ猪木のリングネームで活動した。
1972年には新日本プロレスを設立。1976年にはボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させた。
その後、政治家としても活動し、参議院議員を務めるなど、プロレスの枠を超えた知名度を獲得した。
2人は、芸能界とプロレス界という異なる世界で活躍するスター同士だった。
【馴れ初めを解説】倍賞美津子と猪木はどこで出会った?

2人の出会いは、結婚の約5年前にさかのぼる。
文春オンラインやFRIDAYデジタルが過去の証言・資料をもとに紹介したところによると、出会いのきっかけはプロレスラーの豊登だった。
1966年ごろ、豊登の紹介で知り合う
当時、倍賞は松竹歌劇団(SKD)に所属していた。
先輩レスラーの豊登がSKDの公演に足を運び、その後、関係者と食事をする機会を設けた。そこに若き日の猪木も同席していたという。
猪木はブラジルから帰国したレスラーとして活動しており、当時の倍賞にとっては、まだよく知らない人物だった。
興味深いのは、倍賞が初対面の猪木について、強烈な印象を残したのはプロレスラーとしての実績よりも食べっぷりだったと伝えられていることだ。
2人の最初の交流は、華やかな芸能人同士のロマンチックな出会いというより、食事の席での率直なやり取りから始まった。
交際のきっかけには倍賞千恵子の存在も
猪木は倍賞千恵子のファンだった友人をきっかけに、美津子との接点を作ったというエピソードも残されている。
猪木自身が後年、文化祭の講演で当時の経緯を振り返った内容として、文春オンラインが紹介している。
また、倍賞は母親から猪木との交際を勧められたという過去のインタビューもある。
つまり、交際は2人だけの偶然ではなく、豊登や家族、周囲の人間関係が結びついて生まれたものだった。
1971年3月、婚約を発表
交際を経て、1971年3月29日、2人は羽田空港で婚約を発表した。
直前には、猪木がアメリカ・ロサンゼルスでジョン・トロスを破り、UNヘビー級王座を獲得している。
帰国した2人の婚約発表には150人以上の報道陣が集まったと文春オンラインは伝えている。
一方、倍賞は結婚と仕事の両立について松竹側と話し合い、結婚後の出演機会を心配する幹部の発言を受けて、同社を離れる決断をしたという。
当時の芸能界では、女性俳優の結婚や出産がキャリアに影響するという考え方が根強かった。
倍賞はその環境の中で、自分の人生を自分で決める道を選んだ。
【1971年の1億円挙式から別れまで】娘・寛子と夫婦の16年間
1971年11月2日、京王プラザホテルで豪華挙式
2人が結婚披露宴を開いたのは、1971年11月2日。
会場は東京・西新宿の京王プラザホテルだった。
当時の総費用は約1億円と報じられ、「1億円挙式」として大きな話題になった。
その規模は、単に有名人同士の結婚披露宴というだけではなかった。
文春オンラインが紹介した資料によると、披露宴には約1000人が出席。料理は1人当たり1万5000円、ウエディングケーキは高さ約5メートルに及んだとされる。
引き出物にもこだわり、ブラジルの蝶の標本や柿右衛門の皿などが用意されたという。
2022年の文春オンラインの記事では、当時の1億円を現在の価値に換算すると約4億円に相当すると試算している。
ただし、これは当時の費用を現在の物価水準に置き換えた概算である。
猪木にとって、この結婚式は世間にプロレスという存在を強く印象づける機会でもあった。
娘・猪木寛子さんが誕生
結婚後、2人の間には一人娘が誕生した。
娘の名前は猪木寛子さん。
東スポnoteが掲載した過去の写真資料には、1979年に寛子さんが通っていた幼稚園で餅つきをする家族の姿も残されている。
また、1980年には新日本プロレス関係者らとのソフトボール大会に、親子で参加する姿も記録されている。
猪木は娘を大切にしていたことで知られる。
2025年のENCOUNTによる猪木の実弟・猪木啓介氏へのインタビューでも、兄が寛子さんを非常にかわいがっていたことが語られている。
なお、寛子さんは2022年の父の告別式で遺影を持つ姿が報じられた。
倍賞美津子は新日本プロレスをどう支えたのか
1972年1月、猪木は新日本プロレスを設立した。
しかし、団体の立ち上げは決して順調ではなかった。
テレビ放送や外国人レスラーの招聘ルート、安定した興行収入など、事業を軌道に乗せるための条件が十分にそろっていなかったからだ。
この時期に倍賞が担った役割は大きい。
女性自身の2026年の報道では、猪木が団体設立のために借金を抱えた時期、倍賞が次のように励ましたと関係者の証言を紹介している。
「あなた一人ぐらい私が食わせてあげる」
また、倍賞は自宅に集まるプロレス関係者に手料理を振る舞い、家庭面から猪木や選手たちを支えていたとされる。
新日本プロレスの創設期について、当時の関係者である藤波辰爾も、猪木の自宅を訪れて倍賞の手料理を食べた思い出を語っている。
倍賞の支援は家庭内にとどまらなかった。
プロレスの宣伝活動に協力し、宣伝カーの仕事なども手伝ったという証言がある。
この点は、単なる「有名レスラーの妻」というイメージでは捉えきれない。
団体の経営が不安定だった時代に、家庭と事業の両面で猪木を支える存在だったのである。
【年代別の関係年表】結婚・娘の誕生・離婚・再会を整理
2人の関係を時系列で整理すると、結婚生活とプロレス界の歴史が密接に重なっていることが分かる。
特に注意したいのが離婚年だ。
1987年と1988年の両方の表記を見かけることがあるが、東スポの当時の取材記録では、1987年9月末に離婚届に署名し、10月初めに提出したとされる。
2026年に公開された実弟の証言でも1987年の離婚とされているため、時系列を整理する際は1987年を基準にするのが妥当だ。
【離婚理由の真相】猪木の浮気報道・借金・萩原健一との噂を検証
2人の離婚について、長年語られてきたのが猪木の女性関係と事業上の問題だ。
しかし、離婚の理由をめぐっては、当時の本人たちの対応と後年の関係者証言を分けて考える必要がある。
1986年、猪木に浮気疑惑が報じられる
1986年5月、猪木は週刊誌『FOCUS』で六本木の女性との不倫疑惑を報じられた。
ベースボール・マガジン社の過去記事によると、猪木は当時のインタビューで夜遊びが過ぎたことを認める一方、やましいところはないと説明していた。
また、倍賞夫人については電話で話したが、特に気にしていなかったと本人が語っている。
ただし、これは猪木側の当時の説明であり、倍賞本人の心情を直接示すものではない。
その後、夫婦関係は修復されず、1987年に離婚へ進んだ。
2026年、実弟・猪木啓介氏が明かした離婚の背景
離婚の真相を考えるうえで注目されるのが、2026年7月11日に公開された文春オンラインの記事だ。
実弟の
啓介氏は、倍賞を兄にとって特別な存在だったと振り返ったうえで、離婚について次のように語っている。
「でもまあ、兄貴の浮気もありましたから」
啓介氏によれば、猪木は有名人という立場から女性が近づいてくることが多く、それを拒めない面があったという。
さらに、弟自身が新日本プロレスで営業を担当していたころは、周囲が女性との接触を防いでいたとも説明している。
しかし、団体の体制が変わり、啓介氏自身もブラジルへ戻ったことで、以前のような歯止めが利かなくなったという見方を示した。
この証言は、猪木の身近にいた実弟によるものであり、これまでの離婚報道を考えるうえで重要な材料だ。
ただし、啓介氏自身は離婚当時ブラジルにいたため、夫婦間で何が起きていたのかをすべて直接見ていたわけではない。
したがって、本人たちの説明に代わる最終的な公式見解ではなく、家族の立場から語られた証言として位置づける必要がある。
離婚理由は巨額の借金だったのか?
もう一つ有力な説として語られてきたのが、猪木の事業上の失敗や借金だ。
確かに、新日本プロレスの創設期には資金難があり、猪木が経営面で大きな負担を抱えていたことは複数の証言から確認できる。
しかし、創設期の借金がそのまま離婚の直接原因だったと断定することはできない。
東スポの記者による1987年当時の取材記録では、2人は離婚理由についてマスコミに話さない約束をしていたとされる。
2人をよく知る友人は、当時、離婚を「人生に一つの踏ん切りをつけるための発展的離婚」と説明し、巨額の借金が原因だという見方を否定していた。
つまり、事業上の問題は夫婦関係に影響した可能性があるものの、借金だけで離婚を説明するのは難しい。
倍賞美津子と萩原健一の不倫説は本当?
離婚報道とともに取り上げられたのが、倍賞と俳優・萩原健一の関係をめぐる噂だった。
しかし、東スポの当時の取材に応じた友人は、倍賞と萩原の不倫説についても臆測にすぎないと説明している。
本人たちが不倫を認めた事実や、離婚原因だったと確定できる資料は確認できない。
そのため、萩原健一との不倫を離婚の原因として紹介するのは適切ではない。
離婚理由をめぐる噂と証言の比較
| 論点 | 確認できる内容 | 判断 |
|---|---|---|
| 猪木の浮気 | 2026年に実弟が認める証言 | 有力な背景 |
| 事業の借金 | 新日本創設期の経営負担は存在 | 離婚の直接原因とは断定できない |
| 萩原健一との不倫 | 当時の友人が臆測と説明 | 確定情報ではない |
| 夫婦のすれ違い | 本人たちの詳細な説明はない | 具体的な内容は不明 |
| 発展的離婚 | 当時、親しい友人が説明 | 当時の関係者による見解 |
離婚の背景には猪木の女性関係があったという実弟の証言があり、これは2026年時点で注目すべき新しい情報だ。
一方、借金や萩原健一との噂を含め、すべてを一つの理由にまとめることはできない。
【離婚後の関係】2002年の再会と猪木の晩年、倍賞の現在
離婚後、2人はそれぞれの人生を歩んだ。
しかし、夫婦関係が終わったからといって、長年一緒に過ごした記憶まで消えたわけではなかった。
2002年5月2日、新日本プロレス30周年記念興行で再会
2002年5月2日、新日本プロレス創立30周年記念興行が東京ドームで開催された。
このイベントに倍賞美津子がサプライズゲストとして登場した。
離婚後、長い年月を経て実現した公の場での再会だった。
東スポの元記者による回想記事では、倍賞がリングに上がったのは約15年ぶりだったと紹介されている。
当時の倍賞は、リングに上がった感想として「何十年ぶりにリングに上がりましたが、いいものですね」と話したという。
この再会は、単なる元夫婦の再会という以上に、新日本プロレスの歴史を支えてきた人物が再び同じ場所に立ったという意味を持っていた。
離婚後も猪木との思い出を大切にしていた
倍賞は2001年の『週刊文春』のインタビューで、猪木と偶然再会したときのことを振り返っている。
そのときの感覚は、恋愛関係に戻るというものではなく、昔の同級生に会ったような懐かしさだったと語っている。
また、別れについては、好きで結婚した相手だからこそ、その後のことを悪く言わないという約束をしていたと紹介されている。
2003年1月号の雑誌『SAY』では、倍賞が過去の結婚生活を振り返り、愛した記憶について次のように表現した。
「素晴らしいことなんだって改めて思いました」
別れた相手に対して、怒りや否定だけではなく、共に過ごした時間への肯定的な気持ちを持っていたことがうかがえる。
猪木の晩年、倍賞は病床を訪れていた
2022年10月1日、アントニオ猪木は79歳で亡くなった。
猪木元気工場や新日本プロレスの公式発表によると、猪木は心不全のため死去。闘病していた心アミロイドーシスが背景にあった。
その晩年について、2026年4月の『女性自身』は、倍賞がたびたび病床に見舞いに訪れていたと報じている。
同誌が関係者の証言として伝えた内容では、猪木の病室には一部の関係者しか入れなかったものの、倍賞は見舞いに訪れることができたという。
そして、倍賞が病室に来ると猪木は優しい笑みを浮かべていたとされる。
この話は、当事者の直接インタビューではなく関係者証言に基づく報道だが、離婚から35年ほど経過しても2人の間に特別なつながりが残っていたことを示すエピソードだ。
2026年最新:倍賞美津子は79歳で女優活動を継続
倍賞美津子の2026年現在
- 生年月日:1946年11月22日
- 2026年11月2日現在:79歳
- 80歳の誕生日:2026年11月22日
- 職業:女優
- 近年の出演作:『晴れたらいいね』『UNDERGIRL』
2026年の倍賞美津子については、4月の『女性自身』が本人への取材を掲載している。
同誌によると、倍賞は以前暮らしていた渋谷区の街に再び生活の拠点を移していた。
記者の質問に対し、本人は引っ越しの理由を次のように答えた。
「そうなんです。ちょっと懐かしくなって」
さらに、その場所は結婚して子どもが生まれて以来、長く暮らしていた街であり、現在も好きな場所だと説明している。
渋谷と練馬を行き来しながら、一人で生活していることも明かした。
この発言は興味深い。かつて猪木と新婚生活を送り、娘を育てた街に再び暮らすことになったからだ。
もちろん、引っ越しの理由をすべて猪木への思いだけで説明することはできない。しかし、本人が懐かしさを理由に挙げたことからも、過去の暮らしが今も大切な記憶として残っていることが伝わる。
2026年9月公開の映画『UNDERGIRL』にも出演
女優としての活動も続いている。
2025年にはテレビ東京開局60周年特別企画ドラマ『晴れたらいいね』に出演。2026年9月には、UNDERCOVER PRODUCTIONが制作した映画『UNDERGIRL』にも出演した。
『UNDERGIRL』は中島セナ、松田龍平、水原希子らが参加した54分の映像作品で、2026年9月14日から20日まで渋谷で上映された。
また、2026年には映画『ぐるりのこと。』の4Kリマスター版も公開されている。ただし、こちらは新作映画への新規出演ではなく、過去作品の再上映だ。
80歳を目前にしても、映画やドラマの世界で存在感を示している。
【プロの結論】倍賞美津子と猪木の関係から見える本当のこと
2人の関係を振り返ると、単純な「有名人夫婦の結婚と離婚」という言葉では片づけられない歴史が見えてくる。
1971年の結婚は、当時の芸能界とプロレス界を驚かせる出来事だった。
倍賞は女優としてのキャリアを持ちながら、猪木の新日本プロレス創設を家庭面や周囲の支援を通じて支えた。
その一方で、猪木の女性関係をめぐる問題が浮上し、最終的には1987年に離婚した。
ここで重要なのは、離婚したという事実と、離婚後の2人の関係を切り離して考えることだ。
2002年の再会、倍賞が語った過去への肯定的な思い、そして晩年の見舞いに関する報道を重ねると、2人は夫婦という形を終えた後も、互いの人生に大きな意味を持つ存在だったことがうかがえる。
特に2026年に明らかになった実弟・猪木啓介氏の証言は、離婚理由についての理解を深める重要な材料となった。
一方で、本人たちが公に語らなかった部分については、第三者の証言をそのまま夫婦双方の総意として扱うことはできない。
この2人の歴史を正しく理解するためには、次の3点を押さえておきたい。
1. 確定した出来事と噂を分けること。 1971年の結婚、1987年の離婚、2002年の再会は、具体的な記録が残る出来事である。
2. 離婚理由は複数の証言から判断すること。 実弟による浮気の証言は重要だが、借金説や萩原健一との噂まで事実として扱うことはできない。
3. 離婚後の関係を夫婦関係の延長だけで解釈しないこと。 長い人生を共有した人間同士として、互いへの敬意や思い出が残ることもある。
倍賞美津子にとって猪木は、かつて愛し、家庭を築き、仕事の面でも人生を共にした人物だった。
そして猪木にとっても、倍賞は実弟が「特別な存在」と振り返るほど大きな意味を持つ女性だった。
2人が選んだのは、夫婦として生涯を共にする道ではなかった。しかし、別れた後にも残った記憶と敬意は、2人の関係が決して単純なものではなかったことを物語っている。
【倍賞美津子とアントニオ猪木】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:倍賞美津子とアントニオ猪木は何年に結婚しましたか?
1971年に結婚しました。11月2日に東京の京王プラザホテルで披露宴を開催し、総額約1億円の豪華挙式として話題になりました。
Q2:倍賞美津子と猪木の離婚理由は浮気だったのでしょうか?
猪木の女性関係は離婚の重要な背景と考えられています。2026年には実弟の猪木啓介氏が兄の浮気について証言しました。ただし、夫婦本人が離婚理由の詳細を公表したわけではありません。
Q3:倍賞美津子とアントニオ猪木の間に子どもはいますか?
一人娘の猪木寛子さんがいます。2022年の猪木の告別式では、寛子さんが父の遺影を持つ姿が報道されました。
Q4:倍賞美津子と猪木は離婚後に再会しましたか?
はい。2002年5月2日の新日本プロレス創立30周年記念興行で再会しています。倍賞はサプライズゲストとしてリングに登場しました。
Q5:倍賞美津子は2026年現在、何歳ですか?
1946年11月22日生まれで、2026年11月2日現在は79歳です。同月22日に80歳を迎えます。女優活動も続けており、2026年公開の映画『UNDERGIRL』にも出演しています。
Q6:倍賞美津子は猪木の晩年に見舞いに行っていたのですか?
2026年4月の『女性自身』によると、倍賞は猪木の闘病中にたびたび病床を訪れていたと関係者が証言しています。見舞いに訪れると猪木は優しい笑みを浮かべていたと伝えられています。
まとめ:倍賞美津子とアントニオ猪木、別れた後も残った絆
倍賞美津子とアントニオ猪木は、1971年に結婚し、娘の寛子さんを育てながら、新日本プロレスの創設期を共に歩んだ。
しかし、猪木の女性関係や事業上の問題などが取り沙汰される中、1987年に夫婦生活に終止符を打った。
離婚後も2002年に再会し、晩年には倍賞が病床を訪れていたという証言も残されている。
そして2026年、倍賞は80歳を目前にしても女優として活動を続け、猪木と暮らした思い出の街について懐かしさを語った。
華やかな1億円挙式だけでは見えてこない、夫婦としての喜び、苦悩、別れ、そしてその後の人生。
2人の歴史を知ることは、昭和の芸能界とプロレス界の歩みを知ることにもつながっている。