呂比須ワグナーの現在は?2026年の活動と帰化・W杯の軌跡を徹底解説
元サッカー日本代表FWの呂比須ワグナー(ロペス・ワグナー)は、ブラジル出身でありながら日本国籍を取得し、日本代表として1998年フランスワールドカップに出場した異色の経歴を持つ人物だ。柏レイソルの前身である日立製作所では、JSL2部で33得点を挙げて得点王に輝き、カレカらとともにクラブの成長を支えた。2026年11月現在、57歳となった彼は、選手引退後もブラジルを中心に指導者として活動している。
注目したいのは、彼がなぜ日本への帰化を決断したのかという点だ。その背景には、日本で出会った妻との結婚、1992年に誕生した長男イーゴルの存在、日本語を習得するほど馴染んだ日本での生活、そしてサッカー選手として日本に恩返ししたいという思いがあった。さらに直近では、2026年10月にブラジルのルヴェルデンセFCを退任している。生い立ちから現役時代、家族、監督としての現在までを時系列で整理する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 日本代表になった理由:家族と日本への愛着、外国籍選手枠を空けるチーム事情などが帰化の背景にあった。
- 現役時代の実績:1990年にJSL2部で33得点を記録。日本代表では20試合5得点、1998年フランスW杯では3試合に出場した。
- 2026年現在:ブラジルのルヴェルデンセFCを10月1日に退任。2026年の州選手権準優勝とブラジル全国選手権セリエDベスト16に貢献した。
【プロフィール】ブラジル・フランカで育った少年が18歳で日本へ

8人兄弟の末っ子として生まれたブラジル時代

呂比須ワグナーは1969年1月29日、ブラジルのサンパウロ州フランカで生まれた。本名はワギネル・アウグスト・ロペス(Wagner Augusto Lopes)。8人兄弟の末っ子として育った。
幼少期は決して恵まれた環境ではなかった。父親は彼が4歳になる直前に落雷事故で亡くなり、母親と兄弟たちは生活を支えるために働くことになった。母親は学校の給食調理員として働き、子どもたちも家計を助けていたという。
呂比須自身も小学生の頃から靴工場の仕事を手伝っていた。学校から帰ると靴底を接着する作業などに従事し、仕事が終わった後にサッカーをする生活だった。
週末には地元のサッカークラブで練習を重ね、15歳のときに名門サンパウロFCのアカデミー入団テストに合格。17歳でトップチームに昇格し、1986年にはプロ契約を結んだ。
ただし、当時のサンパウロFCにはブラジル代表経験を持つ優秀な攻撃陣がそろっていた。カレッカやミューレルらと競争する環境では、若い呂比須が安定して出場機会を得るのは簡単ではなかった。
1987年、日産自動車サッカー部への移籍

転機となったのは1987年だ。元ブラジル代表DFオスカールが日産自動車サッカー部へ移籍する際、呂比須もその推薦を受けて日本へ渡った。
当時18歳。ブラジルの有力クラブで将来を期待されながらも出場機会に恵まれなかった若手選手にとって、日本への移籍は新しい挑戦だった。
日産では加茂周監督の指導を受けた。加茂監督から日本で成功したければ日本語を覚えるよう助言され、呂比須はその言葉を実行に移した。
来日当初は文化や生活習慣の違いに戸惑うこともあったが、日本語を覚え、チームメートや周囲の人々と積極的にコミュニケーションを取るようになった。後年、本人が日本の文化に自分のアイデンティティーを感じていたと語っていることからも、この時期が人生の大きな転換点だったことが分かる。
【柏レイソル時代】JSL2部で33得点!カレカとの共闘と移籍の真相
1990年、日立製作所でJSL2部得点王に
1987年から日産自動車でプレーした呂比須は、1990年に日立製作所へ移籍した。同クラブは後に柏レイソルへと発展するチームである。
移籍初年度から圧倒的な得点力を発揮した。1990-91年シーズンの日本サッカーリーグ(JSL)2部で33得点を記録し、得点王を獲得。チームのJSL1部昇格にも貢献した。
33得点という数字は、単に外国人ストライカーとして目立ったというだけではない。日本のサッカー環境に適応し、チームの中心選手として結果を出したことを示す実績だった。
1992年には旧ジャパンフットボールリーグでも得点王となり、ベストイレブンに選出された。翌1993年もベストイレブンに選ばれるなど、継続的に高い得点能力を示した。
カレカとの強力な攻撃陣が柏のJリーグ入りを後押し
1993年以降の柏を語るうえで欠かせないのが、元ブラジル代表のスター選手カレカとの関係だ。
世界的な知名度を持つカレカが加入したことで、攻撃陣の存在感はさらに高まった。呂比須はカレカと前線で連係し、ゴールを量産。Jリーグ参入を目指す柏の攻撃を支えた。
Jリーグ公式データサイトに掲載されている柏在籍時の年度別成績を見ると、呂比須は1993年に18試合18得点、1994年に18試合17得点を記録している。得点率の高さからも、当時の攻撃面での貢献がうかがえる。
一方、検索時に混同されやすいのがネルシーニョの存在だ。柏レイソルのネルシーニョ監督は、2009年に就任した人物である。1993年のカレカ加入期と同時期の柏監督として扱うのは時系列が異なる。カレカとの攻撃面での関係と、後年の柏を率いたネルシーニョの経歴は分けて理解する必要がある。
1995年に柏を離れた理由
1995年になると、柏の外国籍選手の編成にも変化が生じた。元ブラジル代表FWミューレルの加入などがあり、外国籍選手枠をめぐる事情から呂比須は柏を離れることになった。
移籍先は本田技研工業だった。1995年と1996年にはJFLで得点王となり、所属先が変わっても得点能力を発揮した。
この移籍は、その後の帰化申請にも影響した。呂比須は後年、柏を離れたことで帰化申請の保証人に関する問題が生じ、手続きをやり直すことになったと振り返っている。
柏時代は、呂比須が日本のサッカー界で確固たる地位を築いた時期であると同時に、日本国籍取得という人生の大きな決断へ向かう時期でもあった。
【なぜ日本代表になった?】1997年の帰化と1998年フランスW杯
帰化の最大のきっかけは1992年に生まれた長男
呂比須ワグナーが日本国籍の取得を考え始めた大きなきっかけは、1992年に長男イーゴルが誕生したことだった。
本人は2021年のサッカー批評Webのインタビューで、長男を抱いたときに日本とのつながりを強く感じたと説明している。
「日本と一体感を持っていたんだ。」
長年日本で生活し、日本語を理解できるようになり、生活習慣にも馴染んでいた。息子が生まれたことで、日本を自分の家族が暮らす場所として意識するようになったのだ。
また、当時の日立のチームメートたちからも帰化を勧められていた。外国籍選手枠が空けば、クラブは別の外国人選手を獲得できる。本人の日本への愛着だけでなく、チームにとっても合理的な選択だった。
1997年9月12日に日本国籍を取得
呂比須が日本国籍を取得したのは1997年9月12日。日本で長年プレーしてきた経験と家族への思いを背景に、帰化を実現させた。
ここで注意したいのが、長男が日本で生まれたことと日本国籍取得の法的な関係だ。
本人は当初、日本もブラジルと同様に出生地主義を採用していると考えていたと説明している。しかし、日本の国籍法第2条では、出生時に父または母が日本国民であることなどが出生による国籍取得の条件となっている。日本で生まれたという事実だけで、外国籍の両親を持つ子どもが自動的に日本国籍を取得する制度ではない。
つまり、長男の誕生は帰化を考える心理的なきっかけだったが、それ自体が自動的な国籍取得の理由になったわけではない。
帰化から16日後に日本代表デビュー
日本国籍取得からわずか16日後の1997年9月28日、呂比須はフランスW杯アジア最終予選の韓国戦で日本代表デビューを果たした。
代表招集までの展開は非常に速かった。日本代表はフランスW杯初出場を懸けた厳しい予選を戦っており、前線で得点を期待できる選手が必要だった。
呂比須はその期待に応えた。1997年11月1日の韓国とのアウェー戦ではゴールを決め、日本の2-0の勝利に貢献。さらにイランとの第3代表決定戦を経て、日本の初出場への道を支えた。
日本代表での最終成績は国際Aマッチ20試合出場5得点。帰化後、短期間で代表の重要な戦力となった。
1998年フランスW杯で日本の歴史に名を刻む
1998年、呂比須は日本代表の一員としてフランスワールドカップに出場した。
日本はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同じグループに入り、初出場の舞台で世界の強豪と対戦した。呂比須は3試合すべてに途中出場し、背番号12を着けて前線から攻撃に参加した。
特に記憶されているのが、6月26日のジャマイカ戦だ。日本は1-2で敗れたものの、74分に中山雅史が日本代表のワールドカップ初ゴールを記録。この得点をアシストしたのが呂比須だった。
日本代表のW杯初ゴールに直接関わったという点で、呂比須は日本サッカー史に残る存在となった。
なお、フランス大会の日本は3戦全敗でグループリーグ敗退。呂比須自身も大会での得点はなかったが、初出場の歴史的なチームを支えた重要な選手の一人だった。
【妻・息子と家族】日本で出会った妻との結婚、日本語への適応
妻とは日本で出会い1990年に結婚
呂比須ワグナーの家族については、サッカー選手としての経歴と比べると公開情報が多くない。
伝えられているプロフィールでは、1990年に結婚している。本人も2020年のFootball ZONE webの取材で、日本で妻と出会い、結婚したことを語っている。
つまり、日本への移籍は単なる仕事上の海外挑戦にとどまらず、人生のパートナーと出会うきっかけにもなった。
日本で暮らしながら家庭を築いたことは、後の帰化を考えるうえでも重要な背景だった。
息子は2人で、長男イーゴルは1992年生まれ
本人のインタビューによると、子どもは2人で、どちらも日本で生まれた。長男の名前はイーゴルで、1992年に誕生している。
長男の誕生は、前述した帰化の決断と深く結びついている。息子を日本で育てることを考えたとき、自分自身も日本人になりたいという気持ちが強くなったという。
家族全員で日本人になりたいという思いを抱いたことは、単に日本代表としてプレーするためだけでは説明できない、本人の人生観を示している。
一方、妻や子どもたちの現在の職業、居住地、詳細な生活については広く公表されていない。家族のプライバシーに関する情報を、選手としての実績と混同しないことが大切だ。
日本語はどれくらい話せるのか
呂比須は日本で約15年間、選手として生活した経験を持つ。日産時代に加茂周監督から日本語を覚えるよう勧められ、実際に学習を続けてきた。
2021年のインタビューでも、日本語で「ヨロシクオネガイシマス」と自然に受け答えしている。本人は日本語が分かるようになり、日本の習慣にも馴染んだと語っていた。
そのため、日本語を全く理解できない元ブラジル人選手というイメージは実態と異なる。日本語での意思疎通や日本の文化への理解は、彼のキャリアを特徴づける要素の一つだ。
日本での経験が長いからこそ、ブラジルへ帰国した後も日本のサッカーやJリーグとのつながりを持ち続けてきた。
【監督・指導者経歴】パウリスタFCからガンバ大阪、アルビレックス新潟へ
2002年に現役引退、2005年からブラジルで指導者に
呂比須は2002年末、アビスパ福岡で現役生活に終止符を打った。
その後はブラジルへ戻り、スポーツビジネスやスポーツ心理学などを学びながら指導者としての準備を進めた。現役時代の経験だけに頼らず、戦術、トレーニング方法、選手とのコミュニケーションなどを学び直した。
2005年にはパウリスタFCのヘッドコーチに就任。ブラジル国内で経験を積み、2007年まで同クラブのコーチを務めた。
2007年には胆石の手術を受け、一時的に指導者の仕事から離れる。その後2010年に指導現場へ復帰し、パウリスタFCなどで監督を務めた。
2011年にはパウリスタFCをコパ・パウリスタ優勝に導いた。選手としての知名度だけではなく、指導者としてもブラジル国内で経験と実績を積み上げていった。
2012年、ガンバ大阪での挑戦と挫折
日本での指導者キャリアが動き出したのは2012年だ。呂比須はガンバ大阪のヘッドコーチに就任した。
当初は西野朗監督の後任として監督に就任する構想があったが、ブラジルで取得した指導者資格の扱いが問題となり、Jリーグの監督に必要な資格として認められなかった。そのため、セホーン監督の下でヘッドコーチを務める形になった。
しかし、チームは開幕から公式戦5連敗と低迷。2012年3月26日、セホーン監督と呂比須ヘッドコーチはともに解任された。
この経験は本人にとって大きな挫折だった。後年のNumber Webのインタビューでは、指導者としての厳しい経験や精神的な苦しさについても振り返っている。
ただし、2012年の結果だけで監督としての能力を判断するのは早計だ。その後もブラジルで複数のクラブを率い、2017年には日本サッカー協会から海外指導者資格についてS級コーチライセンスと同等以上の資格を持つと認定されている。
2017年、アルビレックス新潟監督として日本に復帰
2017年5月、呂比須はアルビレックス新潟の監督に就任した。日本代表としてフランスW杯に出場した経験と、ブラジルで積んだ指導経験を評価されての起用だった。
しかし、当時の新潟はJ1残留争いの最中にあり、立て直しは容易ではなかった。クラブ公式発表によると、就任後のJ1リーグ戦成績は4勝5分12敗。チームは最終的に18位となり、J2降格が決まった。
2017年11月、クラブは契約満了による退任を発表。呂比須本人も、結果を残せなかったことへの残念な気持ちと、クラブやサポーターへの感謝をコメントしている。
この時期の指導歴は、日本とブラジルの両方でキャリアを築いた呂比須の特徴を象徴するものだった。
呂比須ワグナーの経歴・年代別キャリア一覧
| 時期 | 所属・関係者 | 主な出来事・実績 |
|---|---|---|
| 1969年 | ブラジル・フランカ | 8人兄弟の末っ子として誕生 |
| 1986年 | サンパウロFC | 17歳でプロ契約 |
| 1987年 | 日産自動車 | 18歳で来日。日本での選手生活が始まる |
| 1990年 | 日立製作所 | JSL2部で33得点、得点王を獲得。結婚 |
| 1992年 | 家族・旧JFL | 長男イーゴル誕生。旧JFL得点王、ベストイレブン |
| 1993〜1994年 | 柏レイソルの前身・日立/カレカ | カレカとの攻撃陣で活躍。柏のJリーグ参入を後押し |
| 1995〜1996年 | 本田技研工業 | JFLで2年連続得点王 |
| 1997年 | ベルマーレ平塚/日本代表 | 9月12日に帰化。9月28日に代表デビュー |
| 1998年 | 日本代表 | フランスW杯に3試合出場。中山雅史の初ゴールをアシスト |
| 2002〜2011年 | パウリスタFCなど | 現役引退後に指導者へ。2011年コパ・パウリスタ優勝 |
| 2012年 | ガンバ大阪 | ヘッドコーチに就任後、開幕直後に解任 |
| 2017年 | アルビレックス新潟 | 監督就任。シーズン終了後に退任 |
| 2025〜2026年 | ルヴェルデンセFC | 2026年州選手権準優勝、セリエDベスト16。10月に退任 |
【2026年現在】ルヴェルデンセ退任後の活動と日本復帰の可能性
ブラジルを拠点に複数クラブで監督を歴任
アルビレックス新潟を退任した2017年以降、呂比須はブラジルへ戻り、再び指導者として活動してきた。
その後の指導歴には、パラナ・クラブ、アトレチコ・ゴイアニエンセ、ゴイアス、ブラガンチーノ、ボタフォゴSP、ヴィラ・ノーヴァ、ヴィトーリアなどが含まれる。2024年にはブラジルの複数クラブやインドネシアのPSSスレマンでも指揮を執った。
一つのクラブに長期間とどまるよりも、さまざまなチームの再建や強化に携わるキャリアを歩んできたことが特徴だ。
2025年にルヴェルデンセFCの監督へ
2025年2月11日、ブラジルのルヴェルデンセFCは呂比須の監督就任を正式発表した。
同クラブはブラジルのマットグロッソ州を拠点とするチームで、呂比須は2025年シーズン途中からチームを指揮した。8月には契約更新も発表され、2026年の州選手権を含めた継続的なプロジェクトを担うことになった。
2025年のブラジル全国選手権セリエDでは16試合を指揮し、7勝5分4敗。勝率ではなく勝ち点獲得率に換算すると54.17%だった。
2026年は州選手権準優勝、セリエDベスト16
2026年のルヴェルデンセは、呂比須の下で前年からの成長を見せた。
マットグロッソ州選手権では13試合を戦い、6勝4分3敗。チームは10年ぶりに州選手権の決勝へ進出した。決勝ではミストにPK戦で敗れたものの、準優勝という結果を残した。
さらにブラジル全国選手権セリエDでは15試合を指揮し、6勝6分3敗。チームをベスト16まで導いた。
2025年と2026年の2シーズンを合わせると、ルヴェルデンセでの指揮は46試合、22勝10分14敗。クラブ側も、試合結果だけでなく組織や施設面の改善に貢献したと評価していた。
2026年10月1日に退任。次の所属先は?
2026年10月1日、ルヴェルデンセは呂比須との契約を双方合意のうえで終了したと発表した。2シーズンにわたる指揮に区切りをつけた形だ。
退任時点で57歳。2026年シーズンには州選手権準優勝とセリエDベスト16という結果を残しており、単純な成績不振による退任として説明できるものではない。
2026年11月2日現在、退任後の新たな監督就任先は公表されていない。そのため、現在はルヴェルデンセの監督ではなく、次の所属先が発表されるのを待つ段階にある。
日本で再び指導者として活動する可能性はあるのか
呂比須は日本への愛着を繰り返し語ってきた。2012年にガンバ大阪のヘッドコーチに就任した際も、日本で長くプレーしたことへの感謝を示し、ブラジルに帰国してからもJリーグの試合を見て勉強を続けていたと話している。
2017年にはアルビレックス新潟の監督として日本の現場に復帰した実績もある。日本語を理解し、日本のサッカー文化を知っていることは、再び日本で活動する場合にも強みになるはずだ。
ただし、2026年11月現在、日本のクラブから新たな監督就任が発表された事実はない。今後の活動については、本人やクラブからの正式発表を待つ必要がある。
【よくある質問】呂比須ワグナーに関するFAQ
Q1:呂比須ワグナーはなぜ日本に帰化したのですか?
A1:1992年に長男イーゴルが誕生したことが大きなきっかけです。日本の文化や生活に馴染み、日本を自分の居場所と感じていたことに加え、帰化によって所属クラブの外国籍選手枠を空けられるというチーム事情もありました。1997年9月12日に日本国籍を取得しています。
Q2:呂比須ワグナーは日本代表で何試合に出場しましたか?
A2:国際Aマッチ通算20試合に出場し、5得点を記録しています。1998年フランスW杯では全3試合に途中出場し、ジャマイカ戦では中山雅史の日本代表W杯初ゴールをアシストしました。
Q3:柏レイソル時代の呂比須ワグナーの成績は?
A3:1990年に日立製作所へ移籍し、JSL2部で33得点を挙げて得点王になりました。1993年は18試合18得点、1994年は18試合17得点を記録しています。カレカとの攻撃面での連係も注目されました。
Q4:呂比須ワグナーの妻や子どもについて分かっていることは?
A4:1990年に結婚したとされ、妻とは日本で出会っています。子どもは2人で、どちらも日本生まれです。長男イーゴルは1992年生まれで、帰化を決断するきっかけにもなりました。
Q5:呂比須ワグナーは2026年現在どこのクラブの監督ですか?
A5:2025年から指揮していたブラジルのルヴェルデンセFCを2026年10月1日に退任しました。11月2日現在、次の所属クラブは公表されていません。
Q6:呂比須ワグナーは日本語を話せますか?
A6:日本で長く生活し、加茂周監督の助言を受けて日本語を学びました。本人も日本語を理解できるようになり、日本の文化や習慣に馴染んだと語っています。
まとめ:日本とブラジルをつないだ呂比須ワグナーの軌跡
呂比須ワグナーの人生を振り返ると、日本代表になった理由は単純なサッカー上の選択だけではなかったことが分かる。
ブラジル・フランカで苦労しながら育ち、18歳で日本へ渡り、日産自動車、日立製作所、柏レイソルなどで活躍。JSL2部で33得点を記録し、カレカとの連係でも存在感を示した。その後、妻や子どもたちと日本で生活する中で、日本を自分の居場所として意識するようになり、1997年に帰化を実現した。
1998年フランスW杯では日本代表の一員として3試合に出場。中山雅史の歴史的な初ゴールをアシストしたことは、今も語り継がれる実績である。
引退後はパウリスタFCをはじめとするブラジルのクラブで指導経験を積み、ガンバ大阪やアルビレックス新潟でも活動。2026年にはルヴェルデンセを州選手権準優勝とセリエDベスト16に導いた。
呂比須を評価するときに大切なのは、JSL2部の得点記録、日本代表としての国際Aマッチ成績、Jリーグでの実績、そして監督としての成績をそれぞれ区別して見ることだ。異なる時代やカテゴリーの数字を混同しなければ、選手としての実力と指導者としての歩みをより正確に理解できる。
ブラジルで生まれ、日本を第二の故郷として歩み、両国のサッカーに関わってきた呂比須ワグナー。2026年10月の退任は一つの区切りだが、これまで培ってきた経験を次の指導者キャリアでどう生かすのか、今後の動向にも注目したい。
主な参照資料・ファクト確認
- 日本サッカー協会(JFA)公式記録・フランスW杯試合記録
- Jリーグ公式データサイト・選手別成績
- アルビレックス新潟公式発表・監督就任および退任記録
- 法務省・国籍法および国籍Q&A
- Number Web・呂比須ワグナー本人へのインタビュー
- サッカー批評Web・帰化の理由に関する本人インタビュー
- Football ZONE web・家族と日本代表に関する本人の証言
- ブラジルメディアge・2026年ルヴェルデンセ退任とシーズン成績