通州事件写真は何を写したのか?1937年の史料・出典・真偽を2026年視点で徹底検証

目次

1937年7月29日、中国・北京近郊の通州で発生した通州事件。冀東防共自治政府の保安隊が反乱を起こし、日本人・朝鮮人を含む居留民や日本軍関係者に多数の犠牲者が出た事件として、日中戦争初期の重要な歴史的出来事に位置づけられている。事件を伝える写真は、当時の新聞や雑誌、軍関係資料、戦後の歴史書などに残されているが、すべてが事件現場を直接撮影したものではない。

特に注目されるのが、アジア歴史資料センター(JACAR)で公開されている防衛省防衛研究所所蔵の1938年資料「通州事件」と、国立国会図書館に書誌情報が登録された1999年の特別記事「日中戦争の未公開写真―写真資料が語る通州事件」である。両者は資料の成立時期も写真の性格も異なる。2026年現在、これらを照合すると、写真の撮影時期、所蔵元、撮影主体、掲載時の説明文を区別することが、通州事件の写真を正しく理解する出発点になる。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • JACAR所蔵資料:1938年9月1日作成の「通州事件」は、防衛省防衛研究所所蔵で、写真を含む5画像の資料である。
  • 写真の出典:国立国会図書館には、北博昭による1999年の写真関連記事が登録されており、掲載誌・ページ・公開範囲を確認できる。
  • 真偽の判断:事件当日の写真、事件後の記録写真、後年の再掲載写真を区別し、画像そのものと説明文を別々に検証する必要がある。

【まず結論】通州事件写真は何を写したのか?JACARの1938年資料を確認

通州事件写真

通州事件の写真を調べる際、最初に確認したいのが、アジア歴史資料センター(JACAR)のレファレンスコード C11110548700 である。

資料の正式な件名は「通州事件」。収録元は「支那事変 戦跡の栞 上巻 昭和13年9月1日」で、所蔵機関は防衛省防衛研究所となっている。

記録から確認できる基本情報は次のとおりだ。

- 資料作成年月日:1938年9月1日
- 作成者:陸軍恤兵部
- 所蔵機関:防衛省防衛研究所
- 請求番号:支那-支那事変全般-267
- レファレンスコード:C11110548700
- 画像数:5

ここで重要なのは、資料の作成年月日と写真の撮影年月日が同じとは限らない点である。

1938年9月1日は、あくまで資料が作成された日付だ。写真の撮影日については、それぞれの画像や説明文を確認する必要がある。

JACARの説明文から読み取れる写真の内容

通州事件写真

この資料の内容説明には、写真について具体的な記載がある。

上段の写真は温泉郷・湯山を写したもので、円内には立ち昇る湯気が写っている。下段の写真については、通州を警備する日本軍兵士を写したものと説明されている。

つまり、この資料には通州事件に関連する写真が含まれているものの、すべてが虐殺現場や被害状況を直接撮影した写真というわけではない。

特に上段の写真は、通州事件の犠牲者や戦闘そのものを写したものではなく、温泉郷の風景写真として説明されている。

この区別は非常に重要だ。

インターネット上で「通州事件の写真」として画像が紹介されていても、その画像が何を撮影したものなのかは、原資料のキャプションまで確認しなければ判断できない。

JACARの資料情報は、防衛研究所所蔵の写真資料を調べるうえで重要な一次資料への入口となっている。

1938年資料は事件から約1年後に作成された

通州事件写真

1937年7月29日の事件と1938年9月1日の資料作成には、約1年1か月の時間差がある。

この資料は、事件発生時の現場記録そのものではなく、日中戦争の戦跡を紹介する出版物の一部として成立したものだ。

また、内容説明には当時の日本陸軍側の事件認識が反映されている。

したがって、写真に写る対象を確認するだけでなく、誰が、どのような目的で資料を作成し、どのような説明を付けたのかという点も、史料研究では欠かせない。

【事件の背景と時系列】1937年7月29日に通州で何が起きたのか

写真の真偽を考える前に、撮影対象となった通州事件の歴史的背景を整理しておきたい。

通州は当時、北京の東方に位置する都市で、冀東防共自治政府の所在地だった。

1935年、日本の華北分離工作を背景として成立した冀東防共自治政府は、日本の強い影響下に置かれた対日協力政権だった。その治安維持を担っていた武装組織が保安隊である。

1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中間の軍事的緊張が急速に高まり、華北各地で衝突が発生した。

その情勢のなか、通州の保安隊が日本軍に対して反乱を起こした。

通州事件に至る主な時系列

- 1935年12月:冀東防共自治政府が成立。通州がその所在地となる。
- 1937年7月7日:盧溝橋事件が発生し、日中間の軍事的緊張が高まる。
- 7月25日:廊坊付近で日本軍と中国軍の衝突が発生。
- 7月26日:広安門事件などを通じ、北平周辺の軍事情勢がさらに悪化する。
- 7月28日:北平・天津方面で戦闘が拡大する。
- 7月29日午前3時ごろ:通州で保安隊の反乱が発生。日本軍守備隊や特務機関、居留民などが襲撃される。
- 7月30日:日本軍の救援・反撃が進み、通州の戦闘が収束に向かう。

JACARに収録された国立公文書館所蔵の1937年8月2日付「第七一回議会説明資料 通州事件に就て」には、事件当時の状況について政府側の説明が記録されている。

同資料によれば、通州の居留民は平時には日本人約110人、朝鮮人約180人だったが、事件発生時には約380人に増加していた。また、日本軍の守備隊などは約100人と説明されている。

この記録は事件直後の政府説明を知るうえで重要だが、政府側が議会に提出した説明資料であり、すべての記述を独立した第三者による確認結果と同一視することはできない。

被害者数はなぜ資料によって違うのか

通州事件の被害者数については、研究書や歴史資料によって数字に違いがある。

広中一成の著書では、犠牲となった居留民を225人とし、そのうち111人が朝鮮人だったと紹介している。

一方、小林元裕の論考「通州事件の語られ方」では、日本人117人、朝鮮人106人の合計223人という数字が示されている。

こうした差は、資料ごとの集計や対象範囲の違いを考慮する必要があることを示している。

確認項目 記録・研究内容 史料上の位置づけ
事件発生日 1937年7月29日 公文書・研究書で確認
発生時刻 午前3時ごろ 軍関係資料に記載
政権 冀東防共自治政府 通州の政治的背景
武装組織 冀東政権の保安隊 反乱の主体
居留民数 約380人 1937年8月2日付政府説明
犠牲者数 223人 小林元裕の論考
犠牲者数 225人 広中一成の著書など
戦闘詳報 1937年7月29~30日 防衛研究所所蔵、JACAR登録

保安隊の反乱はなぜ発生したのか

事件の原因については、単純な説明だけでは理解できない。

研究上の論点には、日中間の軍事衝突、冀東政権と保安隊の関係、日本軍との協力・対立、保安隊内部の事情、反日意識の高まりなどがある。

また、保安隊への誤爆説や、中国側の政治組織による工作説なども議論されてきた。

広中一成の研究や、通州事件を扱った歴史研究では、保安隊の組織的な性格や事件直前の警備態勢、反乱に至る経緯が検討されている。

ここで押さえておきたいのは、保安隊が中国人全体を代表する組織だったわけではないという点だ。特定の武装組織による反乱と、その後の民間人殺害を、中国社会全体の行動として一般化することは歴史的な理解を誤らせる。

【写真の出典を徹底照合】防衛研究所・JACAR・国立国会図書館の違い

通州事件写真の調査では、資料の所蔵機関と、写真を掲載した出版物を混同しないことが大切だ。

特に、JACAR、防衛省防衛研究所、国立公文書館、国立国会図書館は、それぞれ役割が異なる。

1.防衛省防衛研究所所蔵の1938年写真資料

前述したレファレンスコードC11110548700は、防衛省防衛研究所所蔵の陸軍一般史料である。

資料名は「通州事件」で、収録元は「支那事変 戦跡の栞 上巻」。

写真を含む5画像で構成され、作成者は陸軍恤兵部と登録されている。

当時の軍側が事件をどのように説明し、どのような写真を関連資料として提示したのかを検証するうえで重要な記録だ。

2.国立公文書館所蔵の1937年8月2日付資料

JACARには、国立公文書館所蔵の「第七一回議会説明資料 通州事件に就て」も登録されている。

レファレンスコードは A15060404800。

1937年8月2日付の資料で、作成組織は内閣官房総務課となっている。

事件直後の政府側の説明や、当時の居留民数、日本軍の配置などを確認できる。

1938年の写真資料とは異なり、こちらは事件発生直後の政府説明を記録した文書である。

3.国立国会図書館の「日中戦争の未公開写真」

写真の出典を調べるうえで、もう一つ重要なのが北博昭による特別記事だ。


国立国会図書館の書誌情報

特別記事 日中戦争の未公開写真―写真資料が語る通州事件


北博昭・1999年9月

- 掲載誌:『歴史読本』
- 巻号:44巻11号(通号712)
- 掲載ページ:156~163ページ
- 国立国会図書館請求記号:Z8-442
- 書誌ID:4801027
- 公開範囲:国立国会図書館館内限定公開
- 遠隔複写:可

この書誌情報から分かるのは、1999年に通州事件の写真を扱う特別記事が雑誌に掲載され、国立国会図書館がその記事を所蔵しているという事実だ。

ただし、国立国会図書館の書誌登録は、その写真の原板や撮影者の真正性を認定したという意味ではない。

写真そのものの説明、掲載時のキャプション、撮影者の記録を調べるには、掲載誌の本文も確認する必要がある。

【通州事件写真の真偽】撮影時期と現存史料から分かること

「通州事件写真は本物なのか」という疑問に答えるには、写真を一括りにせず、個々の画像について出典を確認する必要がある。

現存する写真資料には、少なくとも次のような違いがある。

- 事件当時に撮影された写真
- 事件直後の状況を記録した写真
- 日本軍や軍関係機関が撮影した写真
- 事件を説明する出版物に掲載された写真
- 後年の書籍やウェブサイトに転載された写真

これらは同じ「通州事件写真」という名称で流通していても、史料としての性格は異なる。

被害者の写真に関する出典情報

通州事件の犠牲者を写した写真の一例として、現在インターネット上で再掲載されている遺体写真がある。

Wikimedia Commonsに登録された画像の説明情報では、次のような出典が記載されている。

- 写真の日付:1937年7月30~31日
- 出典:北博昭「日中戦争の未公開写真―写真資料が語る通州事件」
- 掲載誌:『歴史読本』1999年9月号
- 掲載ページ:158ページ
- 撮影主体として記載された組織:日本陸軍支那駐屯憲兵隊北平憲兵分隊

この情報は、写真の来歴を調べるうえで重要な手掛かりとなる。

ただし、現在公開されているデジタル画像の説明情報と、1937年当時の原板・ネガ・撮影記録は別のものだ。1999年の掲載誌に記された説明と、画像の撮影時期や撮影者を裏付ける原資料を照合することが、最終的な真正性の判断につながる。

写真が本物でも説明文が正しいとは限らない

歴史写真の検証で見落とされやすいのが、写真そのものとキャプションの関係だ。

例えば、1937年に実際に撮影された写真であっても、後年の掲載者が別の事件の写真として紹介すれば、誤った歴史情報が生まれる。

また、撮影場所が正しくても、撮影日が事件当日とは限らない。

写真の周囲に写っている建物、軍服、標識、道路、人物の服装などを確認し、撮影時期と場所を裏付ける必要がある。

写真の真偽を見分ける5つの判断基準

検証項目 確認する内容 注意点
原資料 所蔵機関・請求番号 転載画像だけでは不十分
撮影時期 撮影日・資料作成年月日 両者を混同しない
撮影主体 撮影者・所属機関 不明なら不明のまま扱う
キャプション 当時の説明文・後年の説明文 説明文の変更に注意
画像の状態 トリミング・加工・合成 元画像との比較が必要

特にデジタル画像のファイル情報に表示される日付には注意したい。

1937年の写真を2022年にスキャンして公開した場合、デジタルファイルの更新日時は2022年になる。これは写真が撮影された日付ではない。

逆に、画像ファイルに古い日付が表示されていても、それだけで1937年撮影と断定することはできない。

写真の真正性は、画像データだけでなく、原資料から現在の公開画像に至るまでの出典の連続性によって評価する必要がある。

【報道写真とプロパガンダ】通州事件の写真はどのように利用されたのか

通州事件の写真を歴史的に理解するには、1937年当時の新聞報道と写真の利用方法にも目を向ける必要がある。

事件直後、日本国内では号外を含む新聞報道が相次いだ。

小林元裕の論考「通州事件の語られ方」には、1937年7月30日から8月にかけての新聞記事や号外の見出しが紹介されている。

7月30日の『東京日日新聞』号外では、通州での居留民の被害が報じられた。7月31日には事件の残虐性を強調する見出しや生存者の証言が掲載され、8月に入っても各紙が事件を大きく取り上げた。

小林は、事件直後の報道で形成された残虐な事件イメージが、雑誌記事や戯曲などにも引き継がれた経緯を分析している。

広中一成が研究した報道写真の役割

通州事件の写真報道を考えるうえで重要な研究者が、広中一成である。

広中は中国近現代史、日中戦争史、中国傀儡政権史を専門とし、通州事件について史料収集や現地調査を行ってきた。

2016年には、論考「報道写真からみた通州事件―日中戦争初期における日本の反中プロパガンダ」を発表している。

この研究は、通州事件がどのように写真によって伝えられ、当時の日本社会における中国のイメージ形成に結びついたのかを考えるうえで重要なものだ。

新聞写真と軍関係写真は同じではない

2016年6月25日に愛知大学で開催された第29回日中戦争史研究会の議事録には、広中による報告と質疑応答が記録されている。

そのなかで、広中は通州事件の写真報道について、新聞社が撮影した写真と軍関係機関から提供された写真を区別して説明している。

議事録では、複数の新聞が同じ軍関係の写真を使用していた事例や、遺体写真がパンフレットなどに掲載された一方、新聞には掲載されなかった事例が話題になっている。

さらに、事件後の雑誌では、犠牲者の墓参りや生存者の姿が写真の中心になったという説明もある。

この点は、写真の撮影と写真の公開が別の行為であることを示している。

写真が存在していても、新聞に掲載されるとは限らない。反対に、新聞に掲載された写真が必ずしも新聞社自身によって撮影されたとは限らない。

写真が誰によって撮影され、誰の判断で選ばれ、どの媒体で公開されたのか。この流通経路そのものが歴史研究の対象になる。

写真によるプロパガンダとは何か

プロパガンダという言葉は、写真が偽物だったという意味だけではない。

実際に撮影された写真であっても、掲載する写真の選択、構図、説明文、掲載順序、記事の見出しによって、受け手に特定の印象を与えることができる。

通州事件の場合、事件の悲惨さを伝える写真や、犠牲者を悼む写真が、当時の日本社会における中国への感情形成にどのような影響を与えたかが研究対象となっている。

ここで区別すべきなのは、次の3点だ。

1. 写真に写っている出来事が実際にあったか。
2. 写真の撮影日時・場所・撮影主体が正確か。
3. 写真がどのような意図や文脈で報道されたか。

この3つは別々に検証しなければならない。

実際の被害を写した写真が、後年の政治的な議論に利用されることもある。だからといって、写真そのものの史料価値が失われるわけではない。

逆に、写真が実在することだけを根拠に、その写真に付された歴史解釈まで正しいと判断することもできない。

広中一成の報道写真研究が示す重要な視点は、写真を単なる事件の記録ではなく、撮影・選択・公開・受容という一連の過程のなかで考えることにある。

【プロの結論】通州事件写真の史料価値を正しく評価する方法

通州事件写真を調べるとき、最も重要なのは、写真の見た目だけで歴史的な真偽を判断しないことだ。

2026年現在、JACARや国立国会図書館の書誌情報、歴史研究者の論考を照合することで、写真の出典をたどる手掛かりは得られる。

一方、デジタル上で流通する画像には、原資料の一部だけを切り取ったものや、後年の説明文が付加されたものもある。

史料として信頼性を評価する優先順位

写真の出典を調べる場合、次の順番で確認すると効率的だ。

第1段階:公的機関の資料番号を確認する

JACARのレファレンスコードや防衛研究所の請求番号、国立公文書館の資料番号を確認する。

資料番号が分かれば、同じ名称の別資料と混同するリスクを減らせる。

第2段階:資料全体を見る

写真1枚だけではなく、前後のページ、見出し、掲載順序、資料の作成目的を確認する。

1938年の「支那事変 戦跡の栞」のように、写真と説明文が一体になっている資料では、画像だけを切り出すと意味が変わってしまう。

第3段階:当時の報道と照合する

1937年7月末から8月にかけての新聞記事、軍関係文書、政府説明資料を比較する。

第4段階:研究者による分析を確認する

広中一成、小林元裕、笠原十九司などの研究を参照し、事件の経緯や写真の報道上の役割を検討する。

第5段階:後年の転載画像を原資料に戻して確認する

ウェブサイトやSNSに掲載された画像は、元の出版物、ページ番号、撮影者の記録までたどることが重要だ。

さらに読むべき歴史研究・参考資料

通州事件を写真だけでなく、政治的背景や被害者の実態まで理解したい場合には、次の資料が参考になる。

- 広中一成『通州事件 日中戦争泥沼化への道』(星海社新書、2016年)。事件の前史、発生経緯、責任問題、報道写真の内容などを扱う。
- 笠原十九司『通州事件 憎しみの連鎖を絶つ』(高文研、2022年)。歴史的背景や保安隊の性格、被害者の戦後などを扱う。
- 小林元裕「通州事件の語られ方」。事件直後の新聞報道、記憶の形成、被害者の位置づけを検討する。
- 北博昭「日中戦争の未公開写真―写真資料が語る通州事件」(『歴史読本』1999年9月号)。通州事件に関連する写真資料を調べる際の重要な書誌情報である。

これらは、それぞれ扱う対象や研究上の視点が異なる。写真の来歴を調べる場合は北博昭の記事、写真報道の意味を検討する場合は広中の研究、事件の社会的・政治的背景を理解する場合は広中や笠原の著書が参考になる。

【通州事件写真】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:通州事件の写真はJACARで閲覧できますか?

A1:はい。アジア歴史資料センターには、防衛省防衛研究所所蔵の「通州事件」が登録されています。レファレンスコードはC11110548700です。1938年9月1日作成の資料で、写真を含む5画像が登録されています。

Q2:通州事件の遺体写真は本物ですか?

A2:遺体写真として公開されている画像の一例には、北博昭の1999年の記事の158ページを出典とする情報があり、撮影主体として日本陸軍支那駐屯憲兵隊北平憲兵分隊が記載されています。ただし、ウェブ上の転載画像だけでは原板や撮影記録まで確認できないため、掲載誌と原資料の照合が必要です。

Q3:国立国会図書館で通州事件の写真資料を調べられますか?

A3:国立国会図書館には、北博昭の特別記事「日中戦争の未公開写真―写真資料が語る通州事件」の書誌情報があります。1999年9月刊行の『歴史読本』44巻11号、156~163ページに掲載された記事です。オンライン閲覧は館内限定ですが、遠隔複写が可能と登録されています。

まとめ:通州事件写真は出典・撮影時期・説明文の照合が重要

通州事件写真を調査すると、1937年の事件当時の写真、1938年に作成された陸軍関係資料、1999年に雑誌で紹介された未公開写真など、異なる時期と目的で残された資料が存在することが分かる。

特に重要なのは、JACARのレファレンスコードC11110548700に登録された防衛省防衛研究所所蔵資料だ。1938年9月1日作成の写真資料であり、当時の軍側による事件の記録と説明を確認できる。

また、国立国会図書館の北博昭による1999年の記事は、通州事件に関する写真資料を追跡するうえで重要な手掛かりとなる。

写真の真偽を判断する際には、次の3点を忘れてはならない。

- 写真そのものの真正性:実際にその時代に撮影された画像なのか。
- 説明文の正確性:撮影場所、撮影時期、人物、出来事の説明は正しいのか。
- 掲載された歴史的文脈:誰が、どのような目的で写真を公開し、どのように利用したのか。

通州事件の写真は、単に過去の惨事を視覚的に伝えるものではない。1937年の日中関係、軍事組織の実態、当時の報道、戦時宣伝、そして戦後の歴史認識を読み解くための重要な史料でもある。

写真の出典を確認し、撮影時期とキャプションを照合し、異なる立場の史料を比較すること。それが、通州事件の歴史をより正確に理解するための確かな手掛かりとなる。