「日出ずる国」の意味と由来は?607年の国書から日本国号成立まで徹底解説【2026年版】

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「日出ずる国(ひいずるくに)」とは、日本を指す別称として知られる言葉だ。その由来として広く知られているのが、607年(推古天皇15年)、遣隋使が隋の皇帝・煬帝に届けたとされる国書の一節「日出處天子、致書日沒處天子、無恙」です。太陽が昇る東の国の天子から、太陽が沈む西の国の天子へ――。この表現は、古代日本の外交史を象徴する一文として、現在まで語り継がれている。

しかし、ここには意外な歴史的な疑問が残されている。607年の段階で、すでに日本は正式な国号として「日本」を名乗っていたのか。国書を届けた小野妹子とは何者だったのか。また、『隋書』に記された倭王・多利思比孤(たりしひこ)は、推古天皇なのか、それとも聖徳太子なのか。2026年現在も研究が続く『隋書』『日本書紀』『旧唐書』などの記録を照らし合わせると、「日出ずる国」という言葉の背景には、古代国家が成立していく過程が浮かび上がる。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 意味:「日出ずる国」は東方に位置する日本を象徴する呼称で、607年の国書にある「日出處天子」が代表的な関連史料。
  • 由来:小野妹子が関係した遣隋使の外交と、7世紀後半から8世紀初頭に進んだ「倭」から「日本」への国号の転換が重要な背景となる。
  • 国号の成立:701年の大宝律令や702年の遣唐使が重要な節目。正確な改称年月日については、史料上、一つに確定していない。

【意味を解説】「日出ずる国」とは何か?日本を指すようになった理由

日出ずる国

「日出ずる国」とは、文字どおり太陽が昇る場所にある国という意味を持つ表現だ。日本列島は中国大陸から見て東方に位置する。その地理的な関係から、日本は太陽が昇る方向にある国として認識されてきた。

ただし、歴史的な原文を確認すると、607年の国書に登場するのは「日出ずる国」という四字熟語的な国名ではない。実際の記述は「日出處天子」であり、「日出ずる処の天子」と読む。

つまり、原文が直接表現しているのは、太陽が昇る場所にいる天子という意味である。「日出ずる国」は、その表現を日本という国家の位置づけに結びつけた後世の呼び方として理解すると分かりやすい。

「日の本」という言葉との関係

日出ずる国

「日本」という漢字には、「日の本」、すなわち太陽の出るところという意味が込められていると説明される。

古代の東アジアでは、中国王朝を中心とする政治・外交秩序が大きな影響力を持っていた。中国から東に位置する日本列島は、地理的にも日の出の方向にあたる。その位置関係を自国の名称に反映させたという解釈は、日本国号の由来を考えるうえで重要だ。

國學院大學名誉教授の鈴木靖民氏も、日本という国号には「日の本」という意味があり、唐を意識した国家としての自己認識が込められていたと解説している。

ここで押さえたいのは、「日出ずる国」という呼び方と、正式な国号「日本」が同じ時期に成立したとは限らないことだ。607年の国書は、後の日本国号を考えるうえで重要な史料だが、それだけで日本という国号の成立年まで証明できるわけではない。

【検証資料 1】日出ずる国の当時の様子・関連報道写真(出典:Yahoo!ニュース)

【607年の真相】遣隋使・小野妹子と「日出処天子」の国書

日出ずる国

「日出ずる国」という表現を歴史的に理解するうえで欠かせないのが、607年の遣隋使である。当時、日本列島では推古天皇が在位し、隋では皇帝・煬帝が中国を統治していた。

『隋書』倭国伝には、大業3年(607年)、倭王が使者を派遣したことが記されている。この記述は、推古天皇15年に小野臣妹子を隋へ派遣したという『日本書紀』の記事と対応する。

国書に記された歴史的な一文

『隋書』倭国伝に記録された国書の冒頭は、次のとおりだ。

「日出處天子、致書日沒處天子、無恙」

現代語にすると、「日の出るところの天子から、日の沈むところの天子に手紙を送ります。お変わりありませんか」という意味になる。

この一文で注目されるのは、単なる東西の地理的な表現ではない。「天子」という称号を、倭の王と隋の皇帝の双方に用いている点だ。

当時の中国では、皇帝が天下を統治する唯一の天子であるという政治思想が強かった。そのため、隋の皇帝と同じ「天子」という称号を自国の王に用いたことは、外交上、非常に大胆な表現として受け止められたと考えられる。

隋の皇帝・煬帝はなぜ不快感を示したのか

『隋書』には、この国書を読んだ煬帝が喜ばず、外交を担当する鴻臚卿に対して、無礼な蛮夷の書状を再び取り次がないよう命じたという記述がある。

ここで重要なのは、煬帝の反応が史書に記録されている一方、怒りの理由を国書の一語だけに限定することはできないという点だ。

一般的には、隋の皇帝と倭王がともに「天子」を名乗ったことが、皇帝を頂点とする外交秩序に抵触したと解釈されている。「日出處」と「日沒處」という東西の対比そのものよりも、両者を同格に置くような国書の形式が問題になったと考えられる。

ただし、隋側が不快感を示したからといって、遣隋使の外交が失敗したわけではない。翌608年、隋は裴世清(はいせいせい)を倭国へ派遣している。外交関係は継続し、国書の往来も行われた。

小野妹子と推古天皇の関係

小野妹子は、推古朝に活躍した外交使節である。『日本書紀』によれば、607年に遣隋使として派遣され、翌608年には隋からの使者・裴世清を伴って帰国した。

さらに608年、小野妹子は裴世清の帰国に際して再び隋へ渡っている。このときは、留学生や学問僧も同行した。高向玄理、南淵請安、僧旻らは、後の日本の政治・学問・文化に関係する人物として知られている。

なお、小野妹子が隋から持ち帰るはずだった返書を途中で失ったという話も『日本書紀』に記されている。妹子は百済で盗まれたと説明し、朝廷では処罰を求める声も出たが、推古天皇はその罪を許したという。

こうした経緯からも、遣隋使は単なる儀礼的な訪問ではなかったことが分かる。日本側は隋の政治制度や仏教、学術知識を取り入れながら、国際社会における自国の立場を模索していたのである。

【正体を検証】多利思比孤は推古天皇か?聖徳太子との関係

607年の遣隋使をめぐる議論で、現在も注目されるのが「多利思比孤(たりしひこ)」という人物の正体だ。

『隋書』倭国伝は、遣使した倭王を「多利思比孤」と記している。ところが、この人物が日本側の史料に登場する推古天皇や聖徳太子のどちらに当たるのかについては、明確な結論が出ていない。

なぜ推古天皇と聖徳太子の名前が挙がるのか

607年当時の日本では、推古天皇が在位していた。推古天皇は日本史上初の女性天皇として知られ、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子らが政治に関わっていた時代である。

一方、『隋書』の記述では、多利思比孤は倭国の王として登場し、王の妻についても記されている。この記述と推古天皇の女性天皇という立場との関係から、多利思比孤を誰に比定するかが議論されてきた。

主な見方は次のとおりだ。

  • 推古天皇説:『日本書紀』が記す推古朝の遣隋使と『隋書』の記録を対応させ、当時の最高統治者である推古天皇と結びつける見方。
  • 聖徳太子説:対隋外交を主導したとされる厩戸皇子が、外交上の実質的な権力者として国書に関与した可能性を考える見方。
  • 別の王権・人物を想定する説:『隋書』の倭国の記述と『日本書紀』の大和政権の記述をそのまま同一視せず、別の政治勢力や王権の可能性を検討する見方。

特に、推古天皇と聖徳太子をめぐる議論では、当時の政治的な実権、天皇・皇太子・大臣の役割、外交使節の報告内容を区別する必要がある。

『隋書』と『日本書紀』は、成立した時期も記録した側も異なる。中国側の外交記録に登場する王の名前と、日本側の政治制度における人物の肩書を、機械的に一対一で対応させることはできない。

そのため、2026年現在も、多利思比孤を推古天皇または聖徳太子のどちらかと断定することは難しい。「日出処天子=聖徳太子」という学校教育や一般向けの説明で広く知られるイメージと、史料に書かれた人物名の問題は分けて考える必要がある。

【検証資料 2】日出ずる国の活動歴およびメディア掲載記録(出典:Yahoo!ニュース)

【国号の成立時期】倭から日本へ変わったのはいつ?701年・702年の重要記録

「日出ずる国」の歴史を理解するうえで、最も重要な疑問の一つが、日本という国号がいつ成立したのかという問題だ。

古代の中国の史書では、日本列島やその政治勢力を「倭」「倭国」と表記していた。しかし、7世紀後半になると、日本列島の政治勢力は中央集権的な国家制度を整え、対外的な国号や君主の称号も変化させていく。

663年の白村江の戦いと国家体制の転換

背景にあるのが、663年の白村江の戦いである。倭国は百済復興を支援するため朝鮮半島に軍を派遣したが、唐・新羅連合軍に敗北した。

この敗戦は、古代日本の政治と外交に大きな影響を与えた。その後、国内では防衛体制の整備や中央集権化が進み、律令国家の形成に向けた改革が重ねられた。

672年には壬申の乱が起こり、天武天皇が即位する。天武朝から持統朝にかけて、国家制度や君主の称号、歴史編纂などが整備されていった。

國學院大學の鈴木靖民氏は、こうした7世紀末から8世紀初頭の国家形成と「日本」という国号の採用を関連づけて解説している。単に外国向けの呼び名を変えただけではなく、国家としての自立性や歴史的な正統性を対外的に示す動きだったという見方だ。

701年の大宝律令が重要な根拠となる理由

国号の成立を考える際、重要な国内史料が701年(大宝元年)の大宝律令である。

宮内庁が公開している、遣唐使研究で知られる東野治之氏の講義内容では、日本国号が国内の史料で確認できる最初の例として、大宝律令が挙げられている。

大宝律令の公式令には、外国使臣への対応に関係する「明神御宇日本天皇」という表現がある。ここから、少なくとも701年には「日本」という国号が国家の公式な制度に組み込まれていたことが分かる。

この点は非常に重要だ。607年の国書は「日出處天子」という外交表現を示すが、701年の大宝律令は「日本」という国号が国内制度の中で使用されていたことを示す。両者は、証明している内容が異なるのである。

702年の遣唐使が国際的な認知を進めた

次の節目が、702年(大宝2年)の遣唐使派遣である。

663年の白村江の戦い以降、日本から中国への本格的な使節派遣は長く中断していた。それが約30年ぶりに再開されたのが702年だった。

このときの使節団を率いた人物として知られるのが粟田真人(あわたのまひと)である。遣唐使は則天武后の政権下にあった中国へ赴き、日本の国号や天皇号を対外的に伝える役割を担ったとされる。

山川出版社の日本史小辞典でも、702年の遣唐使が中国で「日本使臣」と称したことが紹介されている。日本という国号が外交の場で認知されていく過程を示す重要な出来事だ。

ただし、701年に国内の制度で使用が確認され、702年に外交の場で伝えられたからといって、その年に初めて日本という言葉が生まれたわけではない。国号としての採用は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて進んだ変化として捉えるのが適切だ。

【史料比較・年表】『隋書』『日本書紀』『旧唐書』から見る日本国号の変遷

日本という国号の成立を理解するには、史料が書かれた時期と、その史料が何を記録しているかを区別することが欠かせない。

特に『隋書』は607年の外交を伝える一方、『日本書紀』は日本側の歴史認識を反映した国家編纂の歴史書であり、『旧唐書』『新唐書』は中国側から見た国名の変化を伝えている。それぞれの記録を並べると、歴史の流れが見えやすくなる。

日本国号をめぐる重要な出来事と人物の関係

年代 史料・出来事 関係人物・意味
600年 『隋書』倭国伝に最初の遣使記事 隋の文帝と倭王。対隋外交の始まりを示す。
607年 「日出處天子」の国書 小野妹子が関係する遣隋使。隋の煬帝が不快感を示した。
608年 裴世清が倭国を訪問 小野妹子が隋使を伴って帰国。外交関係が継続する。
663年 白村江の戦い 唐・新羅連合軍に敗北。日本の国家体制と外交方針に影響。
672年 壬申の乱 天武天皇が即位。中央集権的な国家形成が進む。
7世紀末 日本国号の使用が進展 天武・持統朝を中心に国家制度と対外的な呼称が整備される。
701年 大宝律令の制定 国内の公式制度に「日本」の国号が確認される重要な節目。
702年 遣唐使の再開 粟田真人らが派遣され、日本国号と天皇号を対外的に伝える。
720年 『日本書紀』完成 国家の歴史を「日本」という名称のもとで体系化する。

『日本書紀』はなぜ国号の成立を考えるうえで重要なのか

『日本書紀』は720年(養老4年)に完成した、日本最初の本格的な国家編纂の歴史書である。

天武天皇の時代に編纂が始まり、持統天皇・文武天皇の時代を経て完成した。中国の歴史書と同じ編年体の形式を採用し、漢文で記されていることから、国内だけでなく東アジアの国際社会を意識した書物だったと考えられている。

書名そのものに「日本」を掲げていることも注目点だ。これは、720年の時点で日本という国号が国家の歴史を語るうえで確立していたことを示している。

一方、『日本書紀』の推古天皇15年条には小野妹子の遣隋使派遣が記されているものの、『隋書』にある「日出處天子」の国書の文言そのものは掲載されていない。

同じ外交事件を扱っていても、記録する目的や編集方針によって内容が異なる。この違いは、古代史料を読むうえで見落とせないポイントだ。

『旧唐書』『新唐書』が伝える「倭から日本への改称」

中国側の史料として重要なのが、後晋の時代に編纂された『旧唐書』と、北宋時代に編纂された『新唐書』である。

『旧唐書』には「倭国伝」と「日本伝」が別々に設けられている。日本伝には、日本国は倭国の別種であるという記述があり、国号変更について複数の説明が紹介されている。

主な説明は次の3つだ。

  • 日本列島が太陽の近く、すなわち日の出る方向にあるため、日本という名前になった。
  • 倭国が自ら「倭」という名前を好ましくないと考え、日本に改めた。
  • もともと存在した小国の日本が倭国の領域を併合し、その名称を採用した。

これらは中国側の史書に残された説明であり、すべてが同時代の確定した事実というわけではない。特に、3つ目の説明は国家の連続性を考えるうえでも慎重な検討が必要になる。

『新唐書』には、670年(唐の咸亨元年)に関連する遣使記事と国号変更の説明が記されている。これは日本国号が成立した時期を考える材料になるが、701年の大宝律令や702年の遣唐使の記録と合わせて検討する必要がある。

東野治之氏の講義では、唐の張守節が736年に完成させた『史記正義』にある則天武后による国号変更の記事も重視されている。倭側が改号を希望し、唐側が承認したという外交上の経緯を考える手掛かりとなる。

このように、倭から日本への改称は、ある日突然に一度だけ行われた出来事というより、国内の制度整備と中国との外交を通じて進んだ国家名称の転換として捉えると理解しやすい。

【検証資料 3】日出ずる国に関する近況・インタビュー報道記録(出典:Yahoo!ニュース)

【読み方を解説】日本はニッポンとニホンのどちらが正しい?

「日本」という国号には、ニッポンとニホンという2つの読み方がある。日常会話ではどちらも広く使われているが、正式な国名として読む場合には、どちらが正しいのか疑問に思う人も少なくない。

ニッポンとニホンはどちらも使われている

結論からいえば、現代の日本ではニッポンとニホンの両方が認められており、政府によって一方だけに統一されたわけではない。

1934年(昭和9年)、文部省臨時国語調査会は国号の呼称を「ニッポン」に統一する案を決議した。しかし、政府による正式な採択には至らず、現在も2つの読み方が使われている。

公益社団法人日本広報協会の解説でも、どちらか一方だけが正しいという扱いではないことが紹介されている。

NHKでは読み方に一定の目安を設けている

NHKのことばの運用では、正式な国号として使用する場合は「ニッポン」、それ以外の場合は「ニホン」と読んでもよいという考え方が示されている。

ただし、これはNHKの放送上の目安であり、国全体に適用される法的な読み方の統一とは異なる。

実際には、日本語、日本文化、日本列島、日本史など、複合語ではニホンと読むものが多い。一方、日本銀行や日本放送協会など、固有名詞によって読み方が異なる場合もある。

古代の「日の本」と現代の音読みはどうつながるのか

日本という漢字の読み方は、時代とともに変化してきた。古代には「やまと」や「ひのもと」といった訓読が関係し、その後、漢字の音を使ったニッポンやニホンという読み方が定着していった。

「ニッポン」と「ニホン」の違いは、単にどちらかが正しく、どちらかが間違っているという問題ではない。漢字の音韻変化や日本語の発音の変遷、地域や場面による使い分けが関係している。

したがって、歴史的な「日の本」という意味と、現在のニッポン・ニホンという発音は、分けて理解することが大切だ。

【よくある質問】日出ずる国の意味と由来に関するFAQ

Q1:日出ずる国とは日本の正式な国名ですか?
A1:「日出ずる国」は日本を表す歴史的・象徴的な呼称であり、現在の正式な国号は「日本国」です。607年の国書にある「日出處天子」という表現が、その由来を考える代表的な史料となっています。

Q2:日出ずる国の国書を書いたのは聖徳太子ですか?
A2:聖徳太子が対隋外交に関わったとされることから、一般的にはそのように説明されることがあります。しかし、『隋書』は倭王を多利思比孤と記しており、聖徳太子本人が国書を執筆したと直接証明する記録はありません。推古天皇との関係も含め、人物の比定には議論があります。

Q3:日本という国号は701年に決まったのですか?
A3:701年の大宝律令は、日本という国号が国内の公式制度に使用されたことを確認できる重要な史料です。702年の遣唐使も対外的な国号の認知に関わる節目でした。ただし、国号の使用自体は7世紀後半から進んでおり、改称の正確な年月日が一つに確定しているわけではありません。

まとめ:「日出ずる国」の本当の意味と日本国号の歴史

「日出ずる国」という言葉は、単なる日本の美称ではない。607年の遣隋使が伝えた「日出處天子」という国書には、東アジアの国際秩序の中で自国の立場を示そうとした古代の外交意識が表れている。

その後、白村江の戦いを経て国家体制の整備が進み、天武・持統朝の時代に中央集権化が加速した。701年の大宝律令では日本という国号が国内の公式制度に確認され、702年の遣唐使によって対外的にもその名称が伝えられた。720年には『日本書紀』が完成し、日本という国家の歴史が体系化されていく。

【プロの結論】国号の歴史は3つの段階で理解する

「日出ずる国」と日本国号の歴史を正確に理解するためには、次の3つを区別することが重要だ。

  • 607年:「日出處天子」という国書によって、倭国の外交姿勢が記録された段階。
  • 7世紀後半〜701年:律令国家の形成とともに「日本」という国号が国内で制度化されていった段階。
  • 702年以降:遣唐使などを通じて、日本という国号が国際的に認識されていく段階。

特に注意したいのは、607年の国書をそのまま日本国号の成立証明と考えないことだ。『隋書』が伝えるのは倭国の王と外交使節の記録であり、701年の大宝律令が伝えるのは国内制度における国号の使用である。それぞれの史料が持つ意味を分けることで、歴史の流れをより正確に理解できる。

「倭」から「日本」へ。そして「日の本」という意味を持つ国号へ。古代日本が歩んだ変化には、外交、政治制度、文化、国家としての自己認識が深く関わっていた。

607年から2026年まで約1419年。今も使われる「日本」という名前の背景には、隋との外交から律令国家の成立へと続く、東アジアの歴史そのものが刻まれている。

主な史料・研究資料

- 宮内庁掲載・東野治之氏「遣唐使に見る日本の対外交流」
- 國學院大學・鈴木靖民氏「なぜ『日本書紀』は日本を名乗るのか」
- 『隋書』倭国伝・『日本書紀』
- 『旧唐書』『新唐書』
- 公益社団法人日本広報協会「日本の正しい読み方はニホン・ニッポンのどちらか」