五箇条の御誓文の内容を原文・現代語訳で解説|制定の背景と5か条の意味
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、1868年(慶応4年・明治元年)4月6日、明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓う形式で発した、明治新政府の基本方針です。政治は広く会議を開いて公正な意見によって決めること、身分を超えて協力すること、旧来の悪習を改めること、世界の知識を取り入れることなど、近代国家を築くための5つの原則が示されました。
発布から158年を迎えた2026年現在も、日本の近代化や議会政治の出発点を理解するうえで欠かせない歴史的文書です。ただし、現代の民主主義や国民主権をそのまま宣言した憲法ではありません。成立の背景や起草に関わった由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の役割まで知ると、5つの条文に込められた明治新政府の政治的意図がより明確になります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 制定日:1868年4月6日(慶応4年3月14日)。明治天皇が発した明治新政府の基本方針。
- 5つの内容:公議の尊重、上下の協力、国民それぞれの志の実現、旧習の打破、世界の知識の導入。
- 起草に関わった人物:由利公正が原案を作り、福岡孝弟が修正し、木戸孝允がさらに加筆・修正した。
- 歴史的な意味:明治維新後の国家建設の方向性を示し、公議所などの政治制度づくりにも影響を与えた。
- 五榜の掲示との違い:御誓文が政府の基本方針であるのに対し、五榜の掲示は民衆に守らせる具体的な規則だった。
【原文と現代語訳】五箇条の御誓文の全文をわかりやすく解説

五箇条の御誓文は、文字どおり5つの条文から構成されています。原文は明治初期の公文書特有の文語体・漢字表記で書かれているため、現在の日本語に置き換えると意味を理解しやすくなります。
以下は、国立公文書館所蔵の原文を基に、条文ごとの意味を整理したものです。
五箇条の御誓文の原文

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
原文では各条文の冒頭に「一」が置かれています。現代の文章のように第1条、第2条と番号を付ける形式とは異なりますが、内容は明確に5つの項目に分かれています。
現代語訳:5つの条文を簡単な言葉に置き換えると?

第1条:広く会議を開き、政治は公正な議論によって決める。
第2条:身分の上下に関係なく、心を一つにして国の政治を進める。
第3条:役人や武士だけでなく、庶民もそれぞれの志を実現できるようにし、人々が希望を失わない社会を目指す。
第4条:昔から続いている悪い習慣を改め、普遍的で正しい道理に従って政治を行う。
第5条:世界各国から幅広い知識を取り入れ、天皇を中心とする国家の基盤を大いに発展させる。
5つの条文をまとめると、「話し合いによる政治」「社会全体の協力」「人々の意欲の尊重」「古い慣習の改革」「海外の知識の吸収」という5つの方向性が浮かび上がります。
5か条の後に続く文章にも注目
五箇条の御誓文には、5つの条文だけでなく、その前後に新政府の決意を示す文章も記されています。
その趣旨は、これまでにない大きな改革を行うにあたり、明治天皇自身が天地の神々に誓って国家の基本方針を定め、すべての人々の生活を安定させる道を確立するため、関係者も心を合わせて努力するよう求めるものです。
つまり、御誓文は単なる政治改革の標語ではありません。新しい政府がどのような国を築こうとしているのかを、天皇自らが誓約するという形式で内外に示した政治的な宣言だったのです。
【5つの条文の意味】会議・旧習打破・世界の知識が示す政治方針
五箇条の御誓文を理解するうえでは、現代語訳を覚えるだけでなく、それぞれの条文が当時の日本社会にどのような変化を求めていたのかを知ることが大切です。
第1条「広く会議を興し万機公論に決すべし」
第1条は、政治上の重要事項を一部の権力者だけで決めるのではなく、広く会議を開き、多くの意見を踏まえて決定するという原則です。
「万機」とは国政に関するあらゆる重要事項、「公論」とは公正で広く共有される議論を意味します。
江戸幕府の政治体制から新政府へと移行する時期、国の方針を誰がどのように決めるのかは大きな課題でした。第1条は、合議と公論を政治運営の基本に据える方向性を打ち出しています。
後に公議所などの議事機関が設置されたことからも、この条文が単なる理想論にとどまらず、政治制度の形成に影響したことが分かります。
ただし、ここでいう会議は、現在の国会のように全国民が選挙によって代表を選ぶ制度ではありません。明治初期の政治参加は、藩や政府の有力者を中心としたものでした。
第2条「上下心を一にして盛んに経綸を行うべし」
第2条は、身分や立場の違いを超えて人々が協力し、国家の運営に力を尽くすことを求めています。
「上下」は上の身分と下の身分、「経綸」は国を治め、政治や社会を整えることです。
江戸時代には、武士・農民・職人・商人などの身分制度が社会の基本的な枠組みとなっていました。明治維新によって政治体制が変わるなかで、新政府は従来の身分秩序を超えた国家運営を目指す必要がありました。
この条文には、異なる立場の人々が協力して新しい国家を建設するという意図が込められています。
第3条「官武一途庶民に至るまで各其の志を遂げ」
第3条は、五箇条の御誓文のなかでも、社会を構成する人々の役割と意欲に焦点を当てた条文です。
「官武」とは役人や武士を指し、「庶民」は一般の人々を意味します。特定の身分だけでなく、幅広い人々がそれぞれの志を実現できるようにすることが求められています。
また、「人心をして倦まざらしめん事を要す」とは、人々が失望したり、意欲を失ったりしないようにすることが大切だという意味です。
この考え方は、国家の発展を一部の支配層だけの仕事とせず、社会全体の力を活用しようとする姿勢を示しています。
ただし、現代の基本的人権や職業選択の自由を法律で保障した条文と同じではありません。当時の政治的・社会的な文脈に即して理解する必要があります。
第4条「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」
第4条は、昔から続いている悪い慣習を改め、広く通用する正しい道理に基づいて国を治めるという方針です。
「陋習」は、古くからの悪習や不合理な慣習を意味します。「天地の公道」は、特定の地域や身分だけに通用する規則ではなく、普遍的な道理を指す表現です。
幕末の日本は、開国や外交関係の変化によって、従来の政治・社会制度を見直す必要に迫られていました。旧来の制度や慣習を無条件に維持するのではなく、新しい時代に適した仕組みへと改める姿勢がこの条文に表れています。
ここで注意したいのは、昔からの文化や伝統をすべて否定したわけではないという点です。問題とされたのは、あくまで改革の妨げとなる不合理な慣習でした。
第5条「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」
第5条は、海外から幅広い知識を取り入れ、日本の国家基盤を発展させるという方針です。
「智識を世界に求める」とは、国内の従来の知識だけに頼らず、外国の制度・技術・学問などを積極的に学ぶことを意味します。
「皇基」は天皇を中心とする国家の基盤、「振起」は勢いを盛んにすることです。
幕末には欧米諸国との外交関係が大きく変化し、日本は軍事・産業・教育・行政など、さまざまな分野で近代化を迫られていました。
この条文は、海外の知識を取り入れることを国家発展の手段として明確に位置付けています。後の岩倉使節団の派遣や、欧米の制度・技術を参考にした近代化政策を理解する際にも重要な視点です。
【いつ制定された?誰が作った?】1868年の成立経緯と関係人物
五箇条の御誓文が発せられたのは、1868年4月6日(慶応4年3月14日)です。明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓いを立てる儀式を行い、新政府の基本方針を示しました。
ここで重要なのは、御誓文を一人の人物が単独で作ったわけではないことです。原案の作成から最終的な修正まで、由利公正・福岡孝弟・木戸孝允という3人の政治家が関わっています。
五箇条の御誓文の制定日と発表の経緯
成立までの流れを時系列で整理すると、次のようになります。
| 時期 | 人物・出来事 | 役割・歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1868年1月ごろ | 由利公正(三岡八郎) | 「議事之体大意」を基に、会議や公論を重視する原案を作成。 |
| 1868年初頭 | 福岡孝弟 | 由利案を修正し、列侯会議を中心とする構想を盛り込む。 |
| 1868年3月 | 木戸孝允 | 会盟の形式や条文を見直し、天皇を中心とする誓約の形式に整える。 |
| 1868年4月6日 | 明治天皇 | 京都御所の紫宸殿で五箇条の御誓文を発する。 |
| 1868年12月6日 | 明治新政府 | 公議所の設置を布告し、第1条の趣旨を具体化しようとする。 |
| 1869年3月〜6月 | 公議所 | 22回の会議を開催。その後、集議院と改称される。 |
由利公正:最初の原案を作った人物
由利公正は、福井藩出身の政治家です。旧名は三岡八郎といい、幕末から明治初期にかけて新しい国家の財政・政治構想に関わりました。
五箇条の御誓文の出発点となったのは、由利が起草した「議事之体大意」です。公家や大名などによる会議を通じて国政の基本方針を決めるという考え方が、その原案に盛り込まれていました。
つまり、御誓文の中心的な考え方の一つである「会議によって政治を進める」という構想には、由利の政治思想が反映されています。
福岡孝弟:由利案を修正した土佐藩の政治家
福岡孝弟は土佐藩出身の政治家で、由利公正が作成した原案に修正を加えました。
その修正案では「列侯会議」という表現が加えられ、公家や大名などの有力者が集まって国政を議論する構想が具体化されました。
福岡の役割は、最初の原案を単に書き直したことではありません。新政府の政治運営における会議のあり方を、より具体的な形に整理した点にあります。
木戸孝允:最終的な政治方針を整えた人物
木戸孝允は長州藩出身で、明治維新を推進した中心人物の一人です。桂小五郎の名でも知られています。
木戸は福岡案をさらに修正し、特に第1条の表現を見直しました。大名中心の「列侯会議」という考え方から、より広く会議を開くという「広く会議を興し」という表現へと改めたことが重要です。
また、政治方針を有力者同士の会盟で決める方式から、明治天皇が群臣を率いて神々に誓う形式へと整える方向に関わりました。
明治天皇:御誓文を発した主体
明治天皇は、完成した御誓文を1868年4月6日に紫宸殿で発しました。
この儀式では、天地の神々を祀り、公卿や諸侯などが参加しました。天皇自身が先頭に立って誓う形式は、新しい国家の政治方針を示すうえで大きな意味を持っていました。
したがって、「誰が作ったのか」という問いには、由利公正が原案を作成し、福岡孝弟が修正し、木戸孝允がさらに整え、明治天皇が正式に誓約・発布したと整理するのが正確です。
【明治維新との関係】なぜ1868年に五箇条の御誓文が必要だったのか
五箇条の御誓文が発せられた1868年は、日本の政治体制が大きく変わっていた時期です。前年の1867年には大政奉還と王政復古の大号令があり、徳川幕府に代わる新政府が成立しました。
しかし、政治体制が変わったからといって、すぐに全国を統一的に運営できるわけではありません。旧幕府勢力との戦闘が続き、戊辰戦争の最中にあった新政府には、国内の政治的な対立を抑え、国家運営の基本方針を示す必要がありました。
新政府が掲げた国家建設の基本方針
当時の新政府には、複数の課題がありました。
第一に、幕府に代わる新しい政治体制を確立することです。従来の幕藩体制に代わり、全国を一つの政府のもとで統治する仕組みを整えなければなりませんでした。
第二に、異なる立場の政治勢力をまとめることです。薩摩・長州・土佐・肥前などの有力藩をはじめ、公家や旧幕府側の人々との関係を調整し、国家運営への協力を得る必要がありました。
第三に、欧米諸国と対等に交渉できる近代国家を築くことです。外交・軍事・産業・教育など、さまざまな分野で国際社会に対応する能力が求められていました。
五箇条の御誓文は、こうした課題に対して、会議による政治、社会全体の協力、制度改革、海外知識の導入という方向性を示したものです。
なぜ紫宸殿で神々に誓う形式が採用されたのか
五箇条の御誓文の特徴は、一般的な政策文書として発表するのではなく、明治天皇が天地の神々に誓う形式を採用した点にあります。
宮内庁が所蔵資料について公表している解説によると、儀式は京都御所の紫宸殿で行われ、天皇のほか公卿や諸侯などが参加しました。天皇と公家・大名が同じ場に集い、神々の前で誓約するという形式は、当時としても画期的なものでした。
これは、天皇を中心とする新政府の正統性を示すとともに、政治に関わる人々に新しい国家方針への協力を求める意味を持っていました。
海外との関係と第5条の意味
第5条の「智識を世界に求め」という表現には、当時の国際情勢が強く反映されています。
日本は幕末に開国し、欧米諸国との条約関係を結んでいました。しかし、不平等条約の改正など、外交上の課題は残されていました。
明治政府は、海外の政治制度や技術、学問を取り入れながら国家の近代化を進める必要がありました。後の岩倉使節団の派遣や、欧米の制度を参考にした行政改革なども、この時代の国際的な課題と結びついています。
外務省の外交史料に関する解説でも、御誓文の第5条が世界の知識を求める方針を示したことと、明治政府が国際関係の構築や条約改正に取り組んだ経緯が紹介されています。
【五榜の掲示との違い】同じ時期に出された2つの政策文書を比較
五箇条の御誓文と混同されやすい歴史用語に「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」があります。
両者は1868年3月に相次いで出されたため、同じような政策文書だと思われることがあります。しかし、目的も対象も内容も異なります。
五箇条の御誓文は政府の基本方針、五榜の掲示は民衆への規則
五箇条の御誓文は、1868年3月14日に発せられた新政府の政治方針です。
その翌日の3月15日には、明治新政府が五榜の掲示を出しました。これは全国各地の高札場に掲示された5種類の規則で、一般の人々に守るべき事項を示すものでした。
五榜の掲示には、五倫の道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への加害の禁止、郷村からの脱走の禁止などが盛り込まれています。
特に注目すべきなのは、御誓文が新しい政治の方向性を示していたのに対し、五榜の掲示には江戸幕府時代から続く民衆統制の考え方が残されていたことです。
2つの文書の主な違い
両者を比較すると、明治維新直後の新政府が掲げた改革の理想と、実際の民衆統治との間に違いがあったことが分かります。
五箇条の御誓文は、会議・改革・海外の知識を重視する新しい国家像を示しました。一方、五榜の掲示は、社会秩序の維持や民衆の行動規制を重視していました。
この違いは、明治維新が単純に旧制度をすべて廃止した改革ではなく、旧来の仕組みを引き継ぎながら段階的に新しい国家を築いていった過程を表しています。
【プロの結論】五箇条の御誓文の歴史的役割と現代から見る重要性
五箇条の御誓文を歴史的に評価する際には、掲げられた理想と、当時の政治制度として実現した内容を分けて考える必要があります。
第1条の理念は公議所の設置につながった
御誓文の第1条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、新政府にとって重要な政治原則でした。
国立公文書館の資料によると、明治元年12月6日には東京に公議所を設置することが布告されました。各藩から公議人を出し、政治上の議案について意見を述べる仕組みが設けられています。
公議所は1869年3月から6月まで22回の会議を開き、その後、集議院へと改称されました。
これは、御誓文に掲げられた公議の理念を制度として具体化しようとした動きです。ただし、各藩を基盤とした仕組みであり、一般庶民が選挙で代表を選ぶ近代議会とは異なっていました。
五箇条の御誓文は民主主義を完成させた文書ではない
「万機公論に決すべし」という表現だけを見ると、現代の民主主義や議会政治をそのまま宣言したように感じるかもしれません。
しかし、1868年当時の日本には、全国民の普通選挙や国会による政治運営は存在していませんでした。政治参加の範囲も、当初は公家・大名・政府関係者などを中心とするものでした。
したがって、御誓文を現代の民主主義と完全に同一視することはできません。
一方で、政治を公議によって進めるという考え方が明文化され、後の政治制度や議会開設をめぐる議論につながっていったことは重要です。1874年の民撰議院設立建白書や自由民権運動など、政治参加の拡大を求める動きも、明治初期の公議をめぐる政治課題と関連して理解できます。
現代の読者が押さえておきたい3つのポイント
1. 政治の決定方法を変えようとしたこと。
第1条は、特定の権力者だけでなく、会議や公論を重視する政治への方向転換を示しました。現在の議会政治を理解するための歴史的な出発点の一つです。
2. 社会全体の力を国家建設に生かそうとしたこと。
第2条と第3条には、身分の違いを超えた協力や、それぞれの志を尊重する考え方が表れています。新しい国家を一部の支配層だけでなく、社会全体で支える必要性が意識されていました。
3. 外の世界から学ぶ姿勢を明確にしたこと。
第4条と第5条は、旧来の慣習に固執せず、普遍的な道理と海外の知識を取り入れることを求めています。明治日本の近代化を理解するうえで、特に重要な考え方です。
五箇条の御誓文の本質は、古い政治体制から新しい国家へと移行する際に、政治の進め方と社会のあり方を改める方向性を示したことにあります。理想と現実の間には隔たりがありましたが、明治政府の国家建設を理解するための基本史料として、現在も重要な位置を占めています。
五箇条の御誓文の内容に関するよくある質問(FAQ)
Q1:五箇条の御誓文はいつ制定されましたか?
A1:1868年4月6日(慶応4年3月14日)です。明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓う形式で発しました。
Q2:五箇条の御誓文を作ったのは誰ですか?
A2:由利公正が原案を作成し、福岡孝弟が修正、木戸孝允がさらに加筆・修正しました。明治天皇は完成した御誓文を正式に発しました。一人の人物だけが作った文書ではありません。
Q3:五箇条の御誓文を簡単に説明すると何ですか?
A3:新しい国をつくるための5つの基本方針です。①会議と公論を重視する、②身分を超えて協力する、③人々の志を実現できるようにする、④古い悪習を改める、⑤世界の知識を取り入れる、という内容です。
Q4:五箇条の御誓文と五榜の掲示は何が違いますか?
A4:五箇条の御誓文は明治新政府の政治方針を示した文書で、1868年3月14日に発せられました。五榜の掲示は、その翌日の3月15日に出された民衆向けの規則です。前者は国家運営の理念、後者は人々が守るべき具体的な規則という違いがあります。
Q5:五箇条の御誓文は日本の民主主義の始まりですか?
A5:公議や会議を重視する考え方を明文化した点で、議会政治の歴史を考えるうえで重要な文書です。ただし、全国民の選挙や国民主権を定めたものではなく、現代の民主主義制度そのものではありません。
Q6:五箇条の御誓文の第5条にある「皇基」とは何ですか?
A6:「皇基」は天皇を中心とする国家の基盤を意味します。「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」は、海外から知識を取り入れ、国家の基盤を強化・発展させるという意味です。
まとめ:五箇条の御誓文は明治維新の国家建設を示した5つの原則
五箇条の御誓文は、1868年4月6日に明治天皇が発した、明治新政府の基本方針です。
5つの条文には、公議による政治、身分を超えた協力、人々の志の尊重、旧習の打破、世界の知識の導入という考え方が示されています。
その成立には、由利公正・福岡孝弟・木戸孝允という3人の政治家が関わり、それぞれの構想や修正を経て、最終的に明治天皇による誓約という形式で発表されました。
また、五榜の掲示との比較や、公議所の設置などを併せて見ると、明治維新直後の日本が改革の理想と社会秩序の維持という課題を同時に抱えていたことも分かります。
五箇条の御誓文を学ぶ際に大切なのは、単に5つの条文を暗記することではありません。なぜ新政府がこの方針を必要としたのか、誰が起草に関わったのか、そして掲げられた理想が実際の政治にどう反映されたのかを理解することです。
この3つの視点を押さえることで、五箇条の御誓文は、明治維新の歴史だけでなく、日本の近代政治がどのように形づくられていったのかを考えるための重要な史料になります。
参考にした公的史料・歴史資料
- 国立公文書館「日本のあゆみ:五箇条の御誓文が発せられる」
- 宮内庁「所蔵資料詳細/五箇条御誓文」
- アジア歴史資料センター「五箇条の誓文」
- 国立国会図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」
- 国立公文書館「公議所設置の布告」
- 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所「五榜の掲示」
- 外務省「史料と解説・明治前期の外交」