三億円事件モンタージュ写真はなぜ誤ったのか?1968年公開の経緯と未解決の真相を徹底解説
1968年12月21日、日本中に公開された一枚の男の顔。三億円事件の犯人を捜すために警視庁が作成したモンタージュ写真は、事件の象徴として半世紀以上にわたり記憶されてきた。しかし、その写真は本当に犯人の顔を再現したものだったのだろうか。実は、写真のモデルとなった人物や作成方法には、事件発生当初からの捜査判断を揺るがす重大な疑問が残されている。
1968年12月10日に東京都府中市で発生した三億円事件では、警視庁府中署に特別捜査本部が設置され、延べ17万人を超える捜査員が投入された。それでも犯人を特定できず、1975年12月10日に公訴時効が成立した。さらに2026年1月には、NHKの「未解決事件」が新たな証言と捜査資料を取り上げ、長年知られていなかった初動捜査の問題にも光を当てている。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】 - 公開日: 三億円事件のモンタージュ写真は1968年12月21日に公開された。事件発生から11日後のことだった。 - 写真の真相: 目撃証言を基にした写真と説明されたが、実在する別人の顔写真を流用したという取材説があり、1974年12月には信頼性の問題から正式に破棄された。 - 2026年の最新動向: NHKが捜査資料を独自入手し、180人以上の関係者を取材。現場を目撃した元高校生の女性による初証言など、新たな情報が紹介された。
【公開日はいつ?】三億円事件モンタージュ写真が1968年12月21日に発表された経緯

三億円事件のモンタージュ写真が公開されたのは、1968年12月21日である。
事件が起きたのは、その11日前にあたる12月10日。東京都府中市の府中刑務所北側の道路で、白バイ警察官を装った男が現金輸送車を奪った。
被害に遭ったのは、日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へ運ばれていた従業員の冬季ボーナスだった。
実際の被害額は、2億9430万7500円。3個のジュラルミンケースに入れられていた現金が、わずか数分の犯行で姿を消した。
モンタージュ写真の公開までに何があったのか

事件発生当日、警視庁は府中署に特別捜査本部を設置した。
犯人は白いオートバイに乗り、白いヘルメットとマスクを着用していた。警察官らしい服装と振る舞いで現金輸送車を停止させ、爆発物が仕掛けられていると説明した。
銀行員たちが車から離れた隙に、男は輸送車を運転して逃走。犯行時間は約3分だった。
警察にとって重要だったのは、現場にいた銀行員らの証言だった。
現金輸送車に乗っていた関係者から犯人の外見について聞き取りを行い、顔の特徴を捜査用の画像としてまとめる作業が進められた。
そして12月21日、犯人のモンタージュ写真が一般に公開された。
当時の警察は、市民からの情報提供によって犯人の特定につなげようとしていた。写真が新聞などを通じて広く知られるようになり、三億円事件といえば、ヘルメット姿の男の顔を思い浮かべる人も多くなった。
この公開日は、フジテレビの事件年表にも記録されている。
写真の作成に関わった目撃証言は何だったのか

モンタージュ写真の作成において中心となったのは、現金輸送車に乗っていた銀行員らの証言である。
ただし、犯人を見たという証言があったことと、顔の細部まで正確に記憶されていたことは同じではない。
現場では、犯人が白いヘルメットやマスクを着用していたうえ、短時間で犯行が進んでいた。
顔の見え方、観察できた角度、記憶に残った特徴には個人差が生じる。
後年の捜査検証では、こうした証言の信頼性そのものが問題として取り上げられた。写真の公開が早かったからといって、顔の再現精度まで高かったとは限らないのである。
【写真の真相】モンタージュ写真は本当に犯人の顔だったのか?
三億円事件のモンタージュ写真をめぐる最大の疑問は、通常のモンタージュ写真とは異なる方法で作られた可能性があるという点だ。
一般的なモンタージュ写真は、目撃者の記憶を基に、複数の人物の顔写真から目、鼻、口、眉などの特徴を選び、組み合わせて作成する。
警察庁の昭和48年警察白書にも、目撃者などの記憶に基づき、複数の顔写真から特徴を選んで犯人に似た顔を合成する手法として説明されている。
通常のモンタージュ写真と三億円事件の違い
| 比較項目 | 一般的なモンタージュ写真 | 三億円事件の写真をめぐる説 |
|---|---|---|
| 作成の基本 | 複数の顔写真から特徴を選択 | 実在人物の写真を流用したとの説 |
| 基礎となる情報 | 目撃者の記憶 | 銀行員らの証言 |
| 顔の再現 | 顔の各部分を組み合わせる | 元写真の顔が強く残っていたとの指摘 |
| 捜査上の目的 | 犯人の発見につなげる | 市民への情報提供の呼びかけ |
| その後 | 捜査資料として活用 | 1974年12月に正式破棄 |
この違いをめぐって、時効成立後も複数のジャーナリストや事件研究者が調査を続けてきた。
モデル説を紹介したジャーナリストの近藤昭二氏
三億円事件のモンタージュ写真について、特に知られているのがジャーナリストの近藤昭二氏による調査説である。
2021年7月、テレビ東京の番組「じっくり聞いタロウ」では、近藤氏が長年の取材を基に写真の由来について説明した。
近藤氏によれば、公開された写真は一般的なモンタージュ写真ではなく、実在する男性の顔写真をほぼそのまま利用したものだったという。
さらに、その男性は事件発生より約1年半前に亡くなっていたと説明されている。
同氏が紹介した説では、事件直後に捜査線上に浮上した19歳の少年と似ている人物の写真が使われたとされる。
少年の父親が警視庁の幹部だったことなどから、少年本人の写真をそのまま公開できなかったのではないか、というのがこの説の骨子だ。
ただし、これは近藤氏の取材に基づく見解であり、警察が公式に認めた写真作成の経緯ではない。
1974年12月にモンタージュ写真が正式破棄された
この写真をめぐる信頼性の問題は、事件発生から数年後に大きな転換点を迎える。
文春オンラインが2025年12月に紹介した記事では、時事通信社の写真説明として、問題のモンタージュ写真は1974年12月に正式に破棄されたとされている。
つまり、公開当初は犯人の顔を探すための重要資料として扱われた写真が、時効成立の約1年前には信頼性を失っていたことになる。
この事実は、事件を考えるうえで非常に重要だ。
写真が広く知れ渡ったことと、その写真が犯人の顔を正確に再現していたことは別問題である。
三億円事件のモンタージュ写真は、犯人の本人確認に使える確定的な顔写真ではなかった。
【事件の全経緯】モンタージュ写真公開から1975年の時効成立まで
モンタージュ写真の問題を理解するには、公開前後の捜査経過を時系列で整理する必要がある。
特に注目したいのは、写真公開後も捜査が長期間続き、平塚八兵衛の参加や遺留品の発見など、重要な出来事が相次いでいたことだ。
三億円事件の重要年表
| 時期・年月日 | 出来事 | 捜査上の意味 |
|---|---|---|
| 1968年12月10日 | 三億円事件発生 | 府中署に特別捜査本部を設置 |
| 1968年12月21日 | モンタージュ写真公開 | 市民に情報提供を呼びかける |
| 1969年4月9日 | 逃走用車両やジュラルミンケース発見 | 犯行後の移動経路を検証 |
| 1969年4月24日 | 平塚八兵衛が捜査に参加 | 捜査の再検証が進む |
| 1970年12月 | 遺留品のメガホンから新聞紙片を発見 | 犯人につながる物証として分析 |
| 1974年12月 | モンタージュ写真を正式破棄 | 写真の信頼性に疑問 |
| 1975年12月10日 | 公訴時効成立 | 犯人を特定できず未解決に |
この年表は、フジテレビの事件年表、警察関係者の回顧記事、後年の報道を基に整理したものだ。
平塚八兵衛が捜査に加わったのは1969年4月
三億円事件を語る際に欠かせない人物が、警視庁捜査一課の刑事だった
帝銀事件や吉展ちゃん事件など、戦後の重大事件を担当した刑事として知られる平塚は、1969年4月24日に三億円事件の捜査へ加わった。
事件発生から約4カ月が経過した時点での参加だった。
平塚は、それまでの捜査を改めて洗い直す姿勢を取り、犯人は単独犯だったという見方を強めていった。
一方で、別の捜査関係者や作家の松本清張らは、犯行の複雑さから複数犯説を含む異なる可能性を検討していた。
犯人像をめぐっては、捜査内部でも意見が一致していなかったのである。
【目撃証言と犯人像】モンタージュ写真の信憑性を疑うべき理由
三億円事件では、犯人を目撃した人物が複数いた。
しかし、目撃者がいたという事実だけで、犯人の顔を正確に再現できたとは判断できない。
当時の犯人の外見的特徴
事件当時の証言や平塚八兵衛の回顧記事から確認できる犯人の外見は、主に服装や装備に関するものだった。
- 白いヘルメットを着用
- 白いマスクで顔を覆っていた
- 黒い皮ジャンパーを着用
- 白いオートバイに乗っていた
- 警察官のような服装と態度で現金輸送車を停止させた
特に重要なのは、犯人が顔の一部を隠していたことだ。
顔の輪郭や目元などの細部を十分に観察できたかどうかは、目撃者ごとに異なる可能性がある。
なぜモンタージュ写真の信憑性が問題になったのか
大きく分けて3つの問題がある。
1. 目撃時間が短かった
犯行は約3分間で完了した。
犯人の行動を観察できた時間が限られていたため、顔の細部を正確に記憶することは容易ではなかった。
2. 目撃者の記憶と写真の作成過程に疑問が残った
近藤昭二氏の取材説では、実在する別人の写真が利用された可能性が指摘されている。
この場合、目撃者の証言を忠実に画像化したという一般的なモンタージュ写真の説明とは、大きな隔たりが生まれる。
3. 写真そのものが捜査の先入観になった可能性
一度公開された写真は、新聞やテレビを通じて全国に広まった。
その結果、市民や捜査関係者が写真の顔を基準に犯人を探すようになった可能性がある。
本来は犯人を探すための補助資料だった写真が、逆に犯人像を限定してしまったのではないかという問題だ。
この点は、2026年のNHKの再検証でも、事件を象徴するモンタージュ写真の問題として取り上げられている。
【なぜ未解決になった?】捜査員17万人でも犯人を特定できなかった理由
三億円事件は、捜査規模だけを見ても日本の犯罪史に残る大事件だった。
フジテレビの事件紹介によると、捜査員は延べ17万1805人、取り調べを受けた人物は延べ11万7950人、捜査費用は約9億円に達した。
それほどの規模で捜査を進めても、犯人を特定できなかった。
遺留品が多くても決定的な証拠にはならなかった
犯行現場には、偽白バイや発煙筒、トランジスタメガホンなど、多くの遺留品が残されていた。
当初は、これだけの物証があれば早期解決につながるという期待もあった。
しかし、遺留品の多くは盗品や一般に流通している製品だった。
つまり、物が残っていても、それが特定の人物の所有物だったと証明するのは難しかったのである。
また、犯人は現金輸送車を乗り捨てた後、別の車両に乗り換えていた。複数の場所に残された車両や物証を結びつける必要があり、捜査は複雑化した。
平塚八兵衛が指摘した大規模捜査の落とし穴
2026年5月1日、新潮QUEは、1972年9月2日発売の「週刊新潮」に掲載された平塚八兵衛の回顧記事を再構成して公開した。
その中で平塚は、大規模事件では複数の捜査班が動くため、情報交換や細かな連携が不十分になり、個々の証言を丁寧に検証する作業が弱くなる危険性を語っている。
また、世間の注目や報道競争によって捜査そのものがあおられる問題にも触れていた。
この指摘は、三億円事件の未解決を考えるうえで重要だ。
捜査員の人数を増やすことと、個々の情報の精度を高めることは必ずしも同じではない。
1975年12月10日に公訴時効が成立
事件発生から7年後の1975年12月10日、三億円事件は公訴時効を迎えた。
犯人は逮捕されず、事件は未解決のままとなった。
ここで注意したいのは、公訴時効の成立は犯人が判明したことを意味しないという点だ。
また、時効成立によって、モンタージュ写真のモデル説や複数犯説などの諸説が証明されたわけでもない。
事件の真相は、現在も確定していない。
【2026年最新】NHKの新資料と初証言で三億円事件はどう変わった?
2026年の三億円事件をめぐる最大のニュースは、1月10日に放送されたNHKスペシャル「未解決事件 File.10 三億円事件」である。
この番組では、NHKの取材班が捜査に関わる膨大な資料を独自に入手し、180人以上の関係者に取材した。
従来の事件解説では十分に取り上げられてこなかった、当時の捜査員や報道記者の証言も紹介された。
当時の女子高校生が初めて現場について証言
今回の再検証で注目されたのが、事件現場の一部始終を目撃していた当時の女子高校生の女性である。
この女性がNHKの取材に初めて応じ、犯人の姿や警察官に扮した男の言動、白バイに対する違和感などを証言した。
事件発生から半世紀以上が経過しても、当時の現場を直接見た人物の証言が残されていたことは大きい。
ただし、現在の証言は当時の記録と照合しながら評価する必要がある。新しい証言が出たからといって、それだけで犯人が特定されたわけではない。
現場から約20キロ離れた場所で重要な目撃情報が見落とされていた
NHKの2026年の検証で特に注目されたのが、偽白バイに関する証言の見落としである。
番組の事前紹介によると、犯行現場から約20キロ離れた場所で、犯行に使われたとみられる偽白バイについての重要な目撃証言が複数見つかっていた。
しかし、これらの情報は当時の捜査本部によって十分に活用されなかった可能性がある。
さらに、捜査を担当した刑事の手記からは、初動捜査のつまずきを取り戻す難しさも浮かび上がった。
事件の解明を妨げたのは、モンタージュ写真の信頼性だけではなかった。目撃情報の収集と共有、捜査方針の修正にも問題があったことが見えてくる。
2026年に報じられた主な新情報と再検証
| 時期 | 報道・検証内容 | 意義 |
|---|---|---|
| 2026年1月10日 | NHK「未解決事件 File.10」放送 | 捜査資料と180人以上への取材を基に再検証 |
| 2026年1月 | 当時の女子高校生による初証言 | 現場の状況を新たな視点から確認 |
| 2026年1月 | 偽白バイに関する重要証言の見落としを紹介 | 初動捜査の問題を再検討 |
| 2026年3月24日 | 宝島社系の事件特集が公開 | 19歳の少年Sをめぐる説と写真の由来を再整理 |
| 2026年5月1日 | 新潮QUEが平塚八兵衛の1972年の回顧記事を再構成 | 当時の捜査責任者の視点を再検証 |
2026年の新しい動きは、犯人の逮捕や身元の確定ではなく、過去の捜査資料と証言の再検証にある。
特にNHKの番組は、従来の有名な犯人説だけを追うのではなく、捜査の過程そのものを見直した点に意義がある。
【よくある誤解を検証】三億円事件モンタージュに関する噂と事実
三億円事件は、未解決という性質から多くの推理や犯人説が生まれてきた。
しかし、事件について語られる情報には、警察の記録、関係者の証言、ジャーナリストの取材説、後年の推理が混在している。
| よくある説・疑問 | 現時点で整理できる事実 |
|---|---|
| モンタージュ写真は犯人本人の写真 | 犯人本人の顔写真と確認されたものではない |
| 写真は完全な合成画像だった | 一般的な作成方法と異なる写真流用説がある |
| モデルとなった人物が犯人だった | 実在人物の写真だったという説と犯人の特定は別問題 |
| 19歳の少年Sが真犯人だった | 関連を疑う取材説はあるが、犯人と確定していない |
| 平塚八兵衛が真犯人を特定していた | 平塚は独自の捜査方針を持っていたが、事件は未解決 |
| 2026年に犯人が判明した | 新証言と資料の再検証が進んだが、犯人の確定には至っていない |
【プロの結論】写真の正体と事件の真相は分けて考えるべき
三億円事件のモンタージュ写真をめぐる最大の教訓は、捜査資料として公開された画像であっても、その正確性を無条件に信じてはいけないということだ。
写真のモデルが誰だったのかという問題と、実際に現金輸送車を奪った人物が誰だったのかという問題は別々に検証する必要がある。
また、2026年のNHKの再検証で明らかになったように、事件には写真以外にも、見落とされた証言や捜査上の判断ミスという問題が存在していた。
一枚の写真だけに注目するのではなく、当時の目撃情報、遺留品、捜査記録、関係者の証言を相互に照合することが、事件を理解するための重要な判断基準になる。
【FAQ】三億円事件のモンタージュ写真に関するよくある質問
Q1:三億円事件のモンタージュ写真はいつ公開された?
A1:1968年12月21日。事件発生から11日後に公開された。現金輸送車に乗っていた銀行員らの目撃証言を基に、犯人の顔を再現する目的で作成された。
Q2:三億円事件のモンタージュ写真は誰の顔だった?
A2:ジャーナリストの近藤昭二氏は、実在する男性の顔写真がほぼそのまま使われたという説を紹介している。ただし、写真のモデルに関する経緯は警察によって公式に確定されたものではない。写真は1974年12月に正式に破棄された。
Q3:三億円事件の犯人は2026年現在も見つかっていない?
A3:その通り。1975年12月10日に公訴時効が成立し、事件は未解決のままである。2026年にはNHKが新資料や初証言を取り上げたが、犯人の身元が確定したわけではない。
まとめ:三億円事件モンタージュ写真が残した未解決の謎
三億円事件のモンタージュ写真は、1968年12月21日に公開された。事件発生直後の目撃証言を基に作成され、犯人を探すための重要な手掛かりとして全国に広まった。
しかし、その写真には実在する別人の写真を流用したという説があり、1974年12月には正式に破棄された。写真の信頼性をめぐる問題は、三億円事件の捜査が抱えていた難しさを象徴している。
事件では延べ17万人を超える捜査員が投入され、平塚八兵衛ら著名な刑事も解決を目指した。それでも犯人を特定できず、1975年に公訴時効を迎えた。
そして2026年1月、NHKの「未解決事件」によって、当時の捜査資料や新たな証言が改めて紹介された。現場を目撃した女性の初証言や、約20キロ離れた場所での偽白バイに関する情報の見落としは、事件の再検証に新たな視点を与えている。
三億円事件のモンタージュ写真は、犯人の正体を示す決定的な証拠ではなかった。
写真のモデル説、銀行員の目撃証言、平塚八兵衛の捜査方針、そして2026年に再び注目された捜査資料。これらを一つずつ検証することで、事件が未解決に終わった背景が少しずつ見えてくる。
半世紀を超えてもなお残る三億円事件の謎。その核心は、犯人の顔だけでなく、当時の捜査が何を見て、何を見落としていたのかという問いの中にも存在している。