三里塚闘争とは何だったのか?成田空港建設の対立と2026年の現在を徹底解説
三里塚闘争とは、1966年の新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設決定をきっかけに、千葉県成田市三里塚と芝山町周辺の農民を中心として展開された、長期にわたる空港建設反対運動である。土地を守ろうとする農民と、国家的な空港建設計画を推進する政府・空港公団との対立は、1971年の強制代執行や1978年の開港を経ても続いた。
しかし、三里塚闘争の歴史は、単純な空港賛成・反対の争いではない。なぜ農民は空港建設に反対したのか。なぜ土地の強制収用をめぐって激しい衝突が起きたのか。そして、1991年以降の成田空港問題シンポジウム・円卓会議によって、何が変わったのか。2026年現在も成田空港では滑走路の新設と土地取得をめぐる課題が続いている。半世紀以上に及ぶ経緯を年表で整理し、地域社会に残された問題まで解説する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:三里塚闘争は1966年の成田空港建設決定を発端とする農民中心の反対運動であり、土地や生活、地域の意思決定をめぐる問題だった。
- 要点2:1971年には2度の強制代執行が行われ、1978年5月20日に成田空港が開港した。
- 要点3:1991~1994年のシンポジウム・円卓会議で対話による解決が進んだが、2026年もC滑走路の用地取得と土地収用制度が新たな論点になっている。
【三里塚闘争とは何だったのか】空港建設に農民が反対した本当の理由

三里塚闘争は、成田空港の建設に反対する農民運動として1966年に始まった。別名は成田闘争。千葉県成田市の三里塚地区と芝山町を中心に、地元農民、住民、学生、労働者などが参加し、空港建設に伴う土地取得や行政の進め方に異議を申し立てた。
発端は1966年の新空港建設決定

1960年代、日本は高度経済成長のさなかにあり、国際航空需要の増加に対応する新しい首都圏空港が必要とされていた。当時、東京の国際的な玄関口だった羽田空港は、将来的に処理能力が限界に達すると予測されていた。
政府が当初、有力な建設候補地として検討したのは千葉県の富里村周辺だった。しかし、地元住民による強い反対運動が起き、計画の見直しを迫られる。そこで政府は、成田市三里塚周辺への建設案に切り替えた。
1966年7月4日、政府は新東京国際空港を三里塚地区に建設することを閣議決定した。この決定を受け、同年8月には三里塚・芝山連合空港反対同盟が結成され、反対運動が本格化していく。
なぜ農民は空港建設に反対したのか

反対の理由は、単に空港が建設されることへの嫌悪感ではなかった。農民にとって土地は、農作物を生産する場所であると同時に、家族の暮らしや地域の共同体を支える基盤だった。
長年耕してきた農地を失うことは、収入源を失うだけでなく、農業を続けるという人生設計そのものを変えることを意味した。さらに、土地の売却や移転に応じるかどうかは、個々の農家の生活事情にも深く関わっていた。
問題を大きくしたのが、建設地決定に至る過程だった。政府は首都圏の航空需要への対応を急いだ一方、地元住民との十分な合意形成を欠いたまま計画を進めた。千葉県も三里塚案を了承する際に住民対策の徹底を条件としていたが、地域の不安や反発は解消されなかった。
成田空港問題の歴史を振り返る成田国際空港株式会社の公式記録も、建設地の決定、用地取得の難航、地域との対立を一連の経緯として説明している。
農民運動から全国的な社会運動へ
運動が拡大するにつれ、地元農民だけでなく、学生運動や新左翼系の政治団体も支援に加わった。1968年ごろから学生による支援が本格化し、三里塚は全国的な政治・社会運動の象徴的な場所となっていく。
ただし、地元農民と外部の支援者は、必ずしも同じ目的や考え方を持っていたわけではない。農地と生活を守りたい農民、国家の開発政策に反対する政治運動家、学生運動の参加者では、それぞれ問題意識が異なっていた。
この違いを理解することは重要だ。三里塚闘争を学生運動だけで説明することも、すべてを農民の土地問題だけに還元することも、歴史の全体像を捉えるうえでは不十分である。
【年表で整理】1966年の閣議決定から1978年開港、1994年の合意まで
三里塚闘争は、空港建設の決定から開港まで約12年、さらに対話による解決への転換まで約28年を要した。主要な出来事を時系列で並べると、対立がどのように深まり、どの段階で変化したのかが見えてくる。
| 時期 | 主体・出来事 | 関係・歴史的意味 |
|---|---|---|
| 1963年 | 政府による富里村周辺の候補地検討 | 首都圏の新空港建設計画が具体化 |
| 1966年7月 | 成田市三里塚周辺への建設を閣議決定 | 農民・住民による反対運動が拡大する契機 |
| 1966年8月 | 三里塚・芝山連合空港反対同盟の結成 | 地域を横断する反対運動の組織化 |
| 1969年12月 | 土地収用法に基づく事業認定の告示 | 未買収地をめぐる法的対立が深まる |
| 1971年2~3月 | 第一次強制代執行 | 土地取得をめぐり大規模な衝突が発生 |
| 1971年9月 | 第二次強制代執行 | 東峰十字路事件など深刻な人的被害が発生 |
| 1974年4月 | 第1期工事の施設が完成 | 開港に必要な施設が整うが、開港は延期 |
| 1978年5月20日 | 新東京国際空港が開港 | A滑走路1本で運用を開始 |
| 1991年11月~1993年5月 | 成田空港問題シンポジウム | 隅谷調査団のもとで公開討論を実施 |
| 1993年9月~1994年10月 | 成田空港問題円卓会議 | 空港と地域の共生を目指す合意形成 |
| 2011年6月 | 空と大地の歴史館が開館 | 空港と地域の歴史を伝える施設が誕生 |
| 2026年10月 | C滑走路の完成予定を変更 | 土地取得と土地収用制度が再び論点に |
1966年から1970年:建設計画と土地取得の対立
1966年7月10日には約3,000人が集まる建設反対集会が開かれた。反対運動は地域の複数の集落に広がり、三里塚と芝山の反対組織が連携するようになる。
1967年には空港予定地の外郭測量が行われ、1968年には条件付き賛成派の団体との合意によって民有地の約89%が取得された。一方、土地を売却しない農民との交渉は難航した。
1969年9月には建設工事が始まり、同年12月には土地収用法に基づく事業認定が告示される。1970年からは本格的な敷地造成工事に入ったが、未買収地をめぐる対立は解消しなかった。
1971年:強制代執行で対立が深刻化
1971年には、建設用地内の未買収地などを対象に、千葉県による第一次・第二次の強制代執行が実施された。反対派の農民や支援者と警察との衝突は激しく、多数の逮捕者と負傷者を出した。
特に第二次代執行では、東峰十字路で機動隊員3人が死亡する重大事件が発生した。9月20日には、反対派の拠点となっていた小泉よね宅が撤去され、民家への代執行も行われた。
1978年:成田空港が開港
開港準備は進んだものの、反対運動は収束しなかった。1978年3月には管制塔が占拠・破壊される事件が起き、開港予定は延期された。
その後、1978年5月20日、新東京国際空港がA滑走路1本で開港した。現在の成田国際空港の歴史における大きな節目である。しかし、開港は建設をめぐるすべての問題が解決したことを意味しなかった。
【1971年の強制代執行】土地収用法と衝突が残した深い傷
三里塚闘争を語るうえで避けて通れないのが、1971年の強制代執行である。この出来事は、公共事業における土地取得のあり方と、住民の権利をどこまで尊重すべきかという問題を社会に突きつけた。
第一次強制代執行は2月22日に始まった
法政大学大原社会問題研究所の『新版社会・労働運動大年表』に基づく記録によれば、第一次強制代執行は1971年2月22日から3月25日にかけて実施された。
対象となったのは、空港建設予定地内に残された反対派の一坪地主らの所有地、約1,500平方メートルだった。
農民や支援学生らは、砦や地下壕などを設けて抵抗した。研究所の歴史資料によれば、期間中の参加者は延べ約2万8,000人、県側が動員した警察官は延べ約2万5,200人に上る。逮捕者は487人、負傷者は707人と記録されている。
この数字が示すのは、土地の取得をめぐる行政手続きが、地域社会を巻き込む大規模な衝突に発展したという事実だ。
第二次代執行と東峰十字路事件
第二次強制代執行は1971年9月16日に始まり、9月20日に終了した。対象となったのは、空港第1期工事区域内に残る反対派の土地4か所などである。
法政大学大原社会問題研究所の記録では、農民、学生、労働者ら約3,200人が参加し、警察官約5,300人が動員された。激しい衝突の中で機動隊員3人が死亡し、期間中の逮捕者は471人、負傷者は183人に上った。
この時期の衝突は、地域住民の土地問題にとどまらず、警察、行政、学生運動、政治団体が関わる複雑な社会問題へと発展していた。
反対運動には農民の生活を守ろうとする正当な問題提起があった一方、運動の過程で暴力的な行為が発生し、人命が失われたことも歴史の一部である。いずれか一方の立場だけで被害を語ることは、当時の現実を正確に理解する妨げになる。
土地収用法とは何か
土地収用法は、道路、鉄道、空港などの公共事業に必要な土地について、法律で定められた要件と手続きのもとで、所有者の意思にかかわらず取得できる仕組みを定めた法律である。
ただし、公共事業であれば無条件に土地を取得できるという意味ではない。事業の公共性や必要性、補償、収用手続きなどについて法的な審査が必要となる。
成田空港では1969年12月に事業認定が告示され、その後、土地の取得をめぐる対立が続いた。1971年の強制代執行は、こうした行政手続きと現地の抵抗が激しく衝突した局面だった。
この問題が2026年の成田空港拡張でも再び注目されているのは、空港の公共性だけでなく、土地所有者の権利や地域住民の納得をどのように確保するかという課題が、現在も残されているからだ。
【一坪共有地運動と反対同盟】農民・支援者・国家の関係を読み解く
三里塚闘争の特徴の一つが、一坪共有地運動である。これは、空港建設予定地の土地を多数の人々が共有することで、用地取得を難しくし、反対運動を支える仕組みとして展開された。
一坪共有地運動とは何か
一坪共有地運動は、土地を細分化して多数の共有者が所有する形をつくる運動である。土地を一人の所有者から買収すれば取得できる場合とは異なり、多数の共有者が存在することで、用地交渉や取得の手続きが複雑になる。
三里塚周辺では、1966年7月の反対同盟結成と並行して、共有運動を推進する「土地をもつ会」の構想が進められた。
裁判所の2006年6月28日判決に記載された事実関係によると、同会は同年8月に土地の共有登記を行って成立し、1966年12月20日までに合計48か所の一坪共有地について登記が済んでいた。
一坪共有地は、単なる土地の所有形態ではなかった。地域の外にいる支援者も共有者として参加できるため、農民中心の反対運動と全国的な支援ネットワークを結びつける役割も果たした。
三里塚・芝山連合空港反対同盟の役割
三里塚・芝山連合空港反対同盟は、成田市と芝山町にまたがる反対運動の中心的な組織だった。地域ごとの反対組織を連携させ、土地取得への反対、集会、抗議活動、支援者との連携などを担った。
初期の委員長として知られるのが戸村一作である。地域住民による反対運動は、集落単位の組織や女性・青年などの行動隊を含む多様な形で展開された。
ただし、反対同盟は半世紀以上にわたって一枚岩だったわけではない。運動の進め方や政府との交渉をめぐる考え方の違いから、1983年には熱田派と北原派に分裂した。
この分裂は、運動の方向性を考えるうえで重要な転換点となる。政府との話し合いによって解決を模索する立場と、空港建設への反対を継続する立場との違いが、組織内部にも表面化したためだ。
三里塚闘争を構成した主な主体と関係
- 地元農民・住民:農地や生活基盤、地域社会を守るために反対運動を展開した。
- 三里塚・芝山連合空港反対同盟:地域の反対組織をまとめ、運動の中心を担った。
- 学生・労働者などの支援者:全国的な社会運動と連携し、集会や抗議活動を支援した。
- 政府・運輸省:新空港の建設と公共事業の推進を担当した。
- 新東京国際空港公団:現在の成田国際空港株式会社につながる組織として、建設や用地取得を進めた。
- 千葉県・周辺自治体:行政手続き、地域対策、騒音対策、地域振興などに関わった。
- 隅谷調査団:1991年以降の公開討論を主宰し、対立する関係者の合意形成を支えた。
三里塚闘争は、農民と国家という単純な二者関係では理解できない。地域住民の間にも賛成・反対の違いがあり、反対運動内部にも複数の立場が存在した。こうした多層的な関係を把握することが、歴史を読み違えないためのポイントとなる。
【1991年以降の対話】隅谷調査団とシンポジウム・円卓会議
1978年に成田空港が開港しても、未買収地をめぐる対立は続いた。空港の運用は始まったものの、土地の取得、地域の騒音問題、住民の生活、空港拡張をめぐる不信感は残されていた。
転機となったのが1990年以降の対話の動きである。強制的な手段による解決ではなく、公開の場で議論し、双方が妥協点を探る方向へと進んだ。
1991年11月、成田空港問題シンポジウムが始まる
対話への動きの背景には、1990年1月に行われた江藤運輸大臣と反対同盟熱田派の農民との対話があった。
その後、地域振興連絡協議会などを中心に公開討論の場を設ける構想が進み、1991年11月21日に第1回成田空港問題シンポジウムが開催された。
主宰したのは、東京大学名誉教授の隅谷三喜男を団長とする隅谷調査団である。学識経験者5人が調整役となり、運輸省、空港公団、千葉県、反対同盟熱田派などが参加した。
シンポジウムは1993年5月まで計15回開催された。成田空港建設をめぐる歴史的経緯、土地収用、住民の基本的人権、空港と地域の将来などが議論された。
隅谷調査団の所見と土地収用裁決申請の取り下げ
1993年5月24日の最終回で、隅谷調査団は3つの柱からなる所見を示した。
- 長期にわたる力による対決を終わらせるため、国側は土地収用裁決申請を取り下げること。
- 第2期工事のB・C滑走路建設計画について、過去の経緯を反省し、白紙の状態に戻して地域住民と話し合うこと。
- 国、千葉県、自治体、地域住民が対等に参加できる新たな話し合いの場を設けること。
国側と参加した反対同盟の関係者は、この所見を受け入れた。1993年6月には、成田空港の未買収地に関する土地収用裁決申請が取り下げられ、対立の解決に向けた重要な一歩となった。
1993年9月から1994年10月:円卓会議の開催
続いて1993年9月20日、成田空港問題円卓会議が始まった。隅谷調査団の主宰で、1994年10月まで計12回開催された。
参加者は、国や空港公団、千葉県、反対同盟、周辺自治体、地域の民間団体、住民代表などである。単に建設計画の是非を議論するだけでなく、空港と地域が共存するための具体策も検討された。
議論では、地域の人口、農業、商工業、自治体財政、航空機騒音、土地利用など40項目にわたる調査が実施された。騒音地区の住民へのアンケートでは、航空機騒音が気になると回答した人が8割近くに達し、そのうち6割が騒音の増加を感じていたという結果も示された。
1994年10月11日の第12回円卓会議では、隅谷調査団の最終所見が示された。平行滑走路の整備を認める一方、用地取得は話し合いによって行うこと、騒音対策と地域振興を進めること、空港運営の公正性を担保する第三者機関を設置することなどが盛り込まれた。
参加者全員が所見を受け入れ、円卓会議は終了した。その後、1995年1月には成田空港地域共生委員会などが発足し、空港と地域の関係を継続的に検証する仕組みが整えられた。
対話によってすべての反対運動が終わったのか
ここには注意が必要だ。シンポジウム・円卓会議は、参加した関係者の間で対立を緩和し、合意形成を実現した重要な取り組みだった。しかし、当時の反対同盟がすでに分裂していたこともあり、すべての反対派が会議に参加したわけではない。
特に、熱田派が対話に参加する一方、北原派などはシンポジウムへの参加を拒んだ。したがって、1994年の合意を「三里塚闘争に関わったすべての人々が反対運動を終結させた」と理解するのは正確ではない。
歴史的に重要なのは、政府と一部の反対派が強制的な対立から公開討論へと転換し、空港建設と地域社会の関係を考える制度的な基盤を築いたことにある。
【2026年の現在】成田空港拡張と三里塚闘争の歴史が再び交差する
2026年現在、成田空港では「第2の開港プロジェクト」と呼ばれる大規模な機能強化が進んでいる。B滑走路の延伸、新たなC滑走路の建設、新貨物地区の整備などが計画され、空港の国際競争力や物流機能の強化が目指されている。
一方、これらの整備には広い土地が必要となる。土地取得が難航していることから、2026年には土地収用制度の活用が改めて議論の中心になった。
2026年7月:土地収用制度の活用をめぐる協議
2026年7月10日、国土交通省、成田国際空港株式会社、千葉県、空港周辺9市町による四者協議会が開催された。
千葉県の公式発表によると、C滑走路区域については任意の用地取得に向けた交渉を続けながら、土地収用制度を活用することもやむを得ないものとして受け止める方針が確認された。
同じ協議では、B滑走路延伸部について、2029年度内の先行供用を目指すことも確認されている。
この際、千葉県知事は、成田空港建設の初期に地域への十分な説明がないまま計画が進み、大規模な反対運動と長期的な混乱につながった歴史を改めて振り返るよう、国と空港会社に求めた。
これは、過去の三里塚闘争が現在の空港政策にも教訓を残していることを示す動きである。
2026年10月19日:C滑走路の完成予定が2034年末に変更
2026年10月19日、成田国際空港株式会社はC滑走路などの工事について、新たな完成予定期日を2034年12月31日とすることを国土交通大臣に届け出た。
当初の完成予定は2029年3月末だったが、用地取得の難航などを背景に計画が変更された。NAAは任意での用地取得に最大限努力しながら、土地収用制度も活用する方針を示している。
同社の発表では、C滑走路、新貨物地区関連施設について2030年代前半の供用開始を目指すとしている一方、今回届け出た工事完成予定期日は2034年12月31日となっている。供用開始時期と工事完成予定期日は区別して見る必要がある。
また、2026年9月25日時点の用地確保率は、報道されたNAAの資料に基づく数字では、事業全体で91.0%、B滑走路区域で99.5%、C滑走路区域で90.2%だった。C滑走路の建設予定地には、なお取得が完了していない土地が残っている。
三里塚闘争と2026年の土地問題に共通する論点
1966年の空港建設決定と2026年の機能強化計画は、同じ時代の同じ政策ではない。現在は、空港周辺の地域振興や騒音対策、住民との協議など、過去の経験を踏まえた制度や取り組みが設けられている。
それでも、土地取得に関する問題が再び表面化している点には歴史的な連続性がある。
公共事業の必要性をどのように説明するのか。土地所有者の意思をどう尊重するのか。騒音や生活環境への影響を誰が負担するのか。そして、地域住民が計画段階から意見を表明できる仕組みは十分なのか。
これらは、三里塚闘争が社会に残した問いそのものでもある。
空と大地の歴史館で三里塚闘争を学ぶ
三里塚闘争の歴史を現地で学ぶ施設として知られるのが、千葉県山武郡芝山町にある「空と大地の歴史館」である。
2011年6月23日に開館した同館は、成田空港と地域をめぐる歴史的経緯、当時関わったさまざまな立場の人々の苦悩や思いを後世に伝えることを目的としている。
常設展示は、空港建設前の地域の暮らしから、1960年代の建設計画、1970年前後の社会情勢、強制代執行、1978年の開港、シンポジウム・円卓会議、地域との共生、空港の現在と未来までを扱う。
特に注目したいのは、建設する側と反対する側の両方の歴史を扱っている点だ。運動の経緯だけでなく、地域社会がどのように変わったのかを考える手がかりになる。
- 施設名:成田空港 空と大地の歴史館
- 所在地:千葉県山武郡芝山町岩山113-2
- 開館時間:10時~17時(最終入館16時30分)
- 休館日:月曜日(祝日・振替休日の場合は翌日)、年末年始
- 入館料:無料
【プロの結論】三里塚闘争から読み取るべき3つの教訓
三里塚闘争を歴史的に評価する際には、次の3つの視点を分けて考える必要がある。
第一に、公共事業の必要性と地域住民の権利は別々に検証すべき問題である。空港の整備が国家的な利益につながるとしても、それだけで地域住民の土地や生活への影響が正当化されるわけではない。計画の合理性と、決定過程の民主性は別の基準で評価されなければならない。
第二に、反対運動を一つの意思として扱わないことが重要である。農民、周辺住民、学生、政治団体では、参加した理由も目指した結果も異なっていた。反対同盟内部の分裂や、対話への参加をめぐる違いも含めて見ることで、運動の実態が明確になる。
第三に、対話による合意は一度成立すれば終わりというものではない。1991~1994年のシンポジウム・円卓会議は、強制的な対立を乗り越えるための大きな転換点だった。しかし、2026年のC滑走路建設をめぐる用地取得問題は、合意形成と地域との信頼関係を継続して築く必要性を示している。
三里塚闘争の歴史的な価値は、単に空港建設に賛成したか反対したかという結果だけでは測れない。国家の政策決定、土地所有権、地域社会、公共の利益が衝突したとき、どのような手続きで解決を図るべきなのか。その問いを現代に残したことに大きな意味がある。
【三里塚闘争とは何か】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三里塚闘争はなぜ起きたのですか?
A1:1966年7月に政府が成田市三里塚周辺への新空港建設を閣議決定したことが発端です。地元農民は、農地や生活基盤を失うことへの不安に加え、十分な住民合意がないまま計画が進められたことに反発し、反対運動を展開しました。
Q2:1971年の強制代執行では何が起きたのですか?
A2:1971年2月22日から3月にかけて第一次、9月16日から20日にかけて第二次の強制代執行が実施されました。農民や支援者と警察との衝突が激化し、第二次代執行では東峰十字路事件によって機動隊員3人が死亡しました。
Q3:成田空港はいつ開港したのですか?
A3:1978年5月20日です。当初の計画から開港が延期され、A滑走路1本で新東京国際空港として運用を開始しました。
Q4:一坪共有地運動とは何ですか?
A4:空港建設予定地の土地を多数の人々が共有することで、用地取得に対抗する運動です。1966年には「土地をもつ会」が設立され、同年12月20日までに48か所の一坪共有地が登記されました。
Q5:1991年以降のシンポジウム・円卓会議では何が決まったのですか?
A5:1991年11月から1993年5月までの15回のシンポジウムと、1993年9月から1994年10月までの12回の円卓会議を通じて、土地収用裁決申請の取り下げ、住民との対話、空港と地域の共生などが議論されました。1994年10月11日に最終所見が受け入れられ、対話による解決への道が開かれました。
Q6:三里塚闘争は2026年現在も続いているのですか?
A6:1960年代から続いた初期の大規模な対立と、現在の空港機能強化をめぐる問題は区別する必要があります。2026年にはC滑走路の用地取得や土地収用制度の活用が新たな論点となっており、過去の三里塚闘争が残した地域合意と土地所有権の問題は、現在の空港政策にもつながっています。
まとめ:三里塚闘争の歴史は2026年の成田空港問題にも続いている
三里塚闘争は、1966年の成田空港建設決定をきっかけに、農民の土地と生活、国家の公共事業、地域社会の意思決定が衝突して起きた歴史的な反対運動だった。
1971年の強制代執行では深刻な人的被害が発生し、1978年5月20日に成田空港が開港した後も、対立は長く続いた。1991年から1994年にかけての隅谷調査団によるシンポジウム・円卓会議は、強制的な対立から対話による解決へと向かう大きな転換点となった。
そして2026年、成田空港では新たな滑走路建設と用地取得をめぐる問題が再び注目されている。C滑走路の完成予定は2034年末に変更され、土地収用制度の活用も議論されている。
三里塚闘争を理解することは、過去の社会運動を知るだけではない。公共事業を進める際に、地域住民の権利と生活をどう守り、行政への信頼をどう築くのかを考えることでもある。
空港の発展と地域社会の共生は、どちらか一方を選べば解決する問題ではない。三里塚の歴史が残した教訓は、計画の必要性を説明することと、影響を受ける人々の声を意思決定に反映すること、その両方を欠かしてはならないという点にある。