くそうずとは何か?草生水の由来から越後の石油史と現存史跡まで徹底解説

目次

「くそうず」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろうか。実は、くそうずとは、かつて越後(現在の新潟県)で地表に自然に湧き出していた石油の古い呼び名である。「草生水」「草水」「臭水」など複数の漢字が当てられ、日本の石油利用の歴史を語るうえで欠かせない存在だ。

その歴史は古く、『日本書紀』には天智天皇7年(668年)、越国から「燃土」と「燃水」が献上されたという記録が残る。江戸時代には採掘や灯火、薬用などに利用され、慶長13年(1608年)ごろには真柄仁兵衛による新津油田の開発につながった。2026年現在も、新潟県胎内市の黒川石油公園や新潟市秋葉区の煮坪などに、その歴史を伝える遺産が保存されている。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 意味と読み方:くそうずは石油の古称で、「草生水」「草水」「臭水」などと表記される。
  • 歴史的な起点:668年の『日本書紀』に越国から燃える水が献上された記録があり、1608年ごろには真柄仁兵衛が新津油田の煮坪を発見した。
  • 現在の史跡:胎内市の黒川石油公園と新潟市秋葉区の煮坪・石油の里公園で、古代から近代に至る石油の歴史をたどれる。

【まず結論】くそうずとは?読み方・漢字・名前の由来

くそうず

くそうずは、地中から自然に染み出したり湧き出したりする原油を指す、日本の古い呼称である。特に新潟県を中心とする越後地方の石油の歴史と深く結び付いている。

くそうずの正しい読み方は「くそうず」

くそうず

漢字では主に次のように表記される。

  • 草生水(くそうず):現在、歴史や文化財の解説でよく使われる表記。
  • 草水(くそうず):草の間や地表に石油が染み出す様子を連想させる表記。
  • 臭水(くそうず):自然に湧き出した原油の独特な臭気に由来する表記。
  • 臭生水・草生津:古い文献や地域の記録などに見られる異表記。

「草生水」は、現代の一般的な日本語の音読み・訓読みからは読み方を想像しにくい。しかし、歴史的には「くそうず」と読まれ、石油を意味する言葉として使われてきた。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースにも、「草生水」の読み方を「くそうず」とする調査事例が登録されている。

「臭水」という名前は石油の臭いに由来する

くそうず

くそうずの語源として理解しやすいのが、「臭い水」という意味である。

現在のように精製された石油製品とは異なり、地表から自然に湧き出す原油には独特の強い臭気がある。地面や水面に油が浮き、周囲に油臭さが広がる様子から、「臭水」という漢字が使われたと考えられている。

一方、「草水」「草生水」という表記には、草の間から油が染み出してくる土地の様子が反映されている。新潟市秋葉区の公式解説も、臭気に由来する「臭水」と、草の間に染み出すことに由来する「草水」「草生水」という二つの表記の背景を説明している。

つまり、これらは別々の物質を意味する言葉ではない。同じ石油を、臭いという特徴や湧出する土地の景観から表現した呼び名なのである。

「草生水」は水や植物の汁ではない

ここで注意したいのが、「草生水」という漢字から、植物に関係する液体や天然の湧き水を想像してしまうことだ。

実際には、くそうずは原油を指す。草が生えている場所から湧き出すように見えたことや、地表に染み出す状態が漢字表記に反映されたのであり、植物から採取する水ではない。

また、くそうずは現代のガソリンや灯油と同じ製品名でもない。地下から出てきた未精製の石油を指す歴史的な呼称として理解するのが正確だ。

【検証資料 1】くそうずの当時の様子・関連報道写真(出典:Yahoo!ニュース)

【古代史の核心】日本書紀の「燃える水」は668年、献上地はどこか

くそうずの歴史をさかのぼると、飛鳥時代に成立した歴史書『日本書紀』に行き着く。

天智天皇7年(668年)7月条には、越国から燃土と燃水が献上されたという記録がある。これは、日本における石油と天然アスファルトに関する古い文献記録として知られている。

668年7月、『日本書紀』に残された献上記録

「越国献燃土与燃水」

これは『日本書紀』の該当箇所にある漢文の記述である。意味は、越国が燃える土と燃える水を献上したというものだ。

それぞれの正体は、一般に次のように解釈されている。

  • 燃土(もゆるつち):天然アスファルトなど、燃焼性のある地表の物質。
  • 燃水(もゆるみず):地表に自然に湧き出した石油。

当時の人々にとって、地面から燃える物質が現れる現象は珍しいものだった。こうした天然資源が遠方から宮廷に献上されたことは、越国で石油や天然アスファルトの存在が認識されていたことを示す重要な記録である。

資源エネルギー庁のエネルギー白書や石油技術協会の歴史解説でも、この668年の記録は日本の石油史を語る出発点として紹介されている。

献上された場所は現在の新潟県胎内市なのか

検索すると、「日本最古の石油は胎内市の黒川油田から献上された」という説明を見かけることがある。

この説には地域の歴史的背景がある。現在の新潟県胎内市黒川地区には、古くから原油が自然に湧き出す場所が存在し、黒川油田は日本最古の石油湧出地の一つとして紹介されてきた。

胎内市が2025年3月に策定した「胎内市文化財保存活用地域計画」でも、『日本書紀』にある越国からの献上記録は、この地域を指すといわれていると説明している。

一方、新潟市の新津油田に関する公式解説では、668年の越国が現在の新津に該当するかどうかは不明としている。

ここが歴史を読み解くうえで大切なポイントだ。『日本書紀』に記録されているのは「越国」という広域の地名であり、現代の特定の油田名や市町村名ではない。

そのため、胎内市黒川は有力な伝承地として位置付けられているものの、668年の献上地点を黒川と断定することはできない。古代の記録と現在の地域伝承を区別して理解する必要がある。

鎌倉時代にも「くさうつ」の記録が残る

くそうずと越後の石油の関係は、古代の記録だけで終わらない。

鎌倉時代の奥山荘関係文書には、石油が染み出す地点を示す「くさうつ(草水)」という記述が見られる。胎内市の文化財保存活用地域計画でも、13世紀の奥山荘波月条近傍絵図や古文書に関連する記載があることを紹介している。

これは、石油が単なる珍しい自然現象ではなく、土地の名前や地域の暮らしと結び付いていたことを示す。

地名として残った「草水」や「臭水」は、地下資源が地域の歴史に深く入り込んでいた証拠でもある。

【江戸時代の実像】くそうずは薬・灯りに使われ、採掘権は管理された

江戸時代になると、くそうずは越後の各地で知られる資源となった。自然に湧き出す石油を採取し、生活に利用する動きが広がっていく。

ただし、当時の石油利用は、現在の石油産業のように大量生産・大量消費を前提としたものではない。採取技術や精製技術には限界があり、地域ごとの資源の性質や利用方法に応じて使われていた。

薬や安価な灯火として利用された

新潟県立図書館の歴史相談資料によると、江戸時代までの石油は「くそうず」と呼ばれ、薬や安価な灯りとして利用されていた。

当時の石油は、現代の灯油のように精製された製品ではない。原油には不純物や独特の臭気があり、品質も採取場所によって異なった。そのため、一般家庭で広く使われる日用品だったわけではない。

それでも、地域で手に入る燃料や薬用資源として一定の価値があった。天然資源を生活に取り入れようとする人々の工夫が、くそうずの利用を支えていたのである。

採掘権をめぐる争いと運上金

石油が資源として価値を持つようになると、誰が採掘できるのかという問題も生まれた。

新潟県立図書館が紹介する古文書には、草生水の採掘や試掘に関係する契約・証文が残されている。江戸時代には領主から採掘を認められた草水稼人や商人が採油事業を行い、採掘権とともに一定の特権が認められていた。

また、越後の各地で採取された草生水は課税の対象となり、運上金と呼ばれる税が課されていた。

新潟県立図書館の資料には、旧板倉町の機織村周辺で井戸の試掘を「問堀」と呼び、試掘許可を求める人が多かったため、採掘区域をめぐる争いが発生していたことも紹介されている。

つまり、くそうずは単なる自然現象ではなく、土地の権利、領主の財政、地域商人の経営が交差する経済資源でもあった。

江戸時代の「火井」と石油の違い

もう一つ、混同されやすいのが越後の「火井(かせい)」である。

1812年(文化9年)刊行の『北越奇談』には、越後七不思議の一つとして火井が紹介されている。地面から噴き出すガスに火がともる現象で、こちらは主に天然ガスに関係するものだ。

石油そのものが燃える現象と、地下から噴き出した天然ガスが燃える現象は異なる。石油のくそうずと、天然ガスに関係する火井・土火を区別すると、越後のエネルギー史をより正確に理解できる。

【検証資料 2】くそうずの活動歴およびメディア掲載記録(出典:Yahoo!ニュース)

【1608年からの系譜】真柄仁兵衛と煮坪、新津油田の歩み

越後の石油史で重要な人物が、真柄仁兵衛貞賢(まがら・にへえ・さだかた)である。

新潟市秋葉区の公式資料によると、仁兵衛は越前国から移住し、新田開発に適した土地を探して新津丘陵周辺を歩いていた。その過程で草水が染み出す場所を発見し、新発田藩の許可を得て油井を掘削した。

その発見地の一つが、新津油田発祥の地と伝わる「煮坪」である。

真柄仁兵衛が1608年ごろに発見した煮坪

慶長13年(1608年)ごろ、真柄仁兵衛は新津丘陵の田家周辺で、草水の油が浮かぶ池を発見したと伝えられている。

この発見が新津油田の採油の歴史につながった。真柄家は柄目木に居を構え、以後も草水の採掘を続けた。

なお、石油の世界館の施設解説では、1608年の発見に続き、1613年(慶長18年)に新発田藩主の溝口家から許可を得て採掘を始めたと整理されている。発見と事業化を区別して見ると、初期の開発過程が理解しやすい。

くそうずの歴史をたどる重要年表

年代 出来事・関係人物 歴史的な意味
668年 『日本書紀』天智天皇7年7月条 越国から燃土・燃水が献上された記録が残る。
鎌倉時代 奥山荘関係文書 「くさうつ(草水)」という石油湧出地に関係する記載が見られる。
1608年ごろ 真柄仁兵衛貞賢 新津丘陵で草水の湧出地を発見。新津油田の起源と伝わる。
1613年 新発田藩主溝口家と真柄家 施設解説では藩の許可を得て本格的な採掘を始めた時期とされる。
江戸時代 草水稼人・地域商人 手掘りによる採油、薬用・灯火利用、運上金による課税が行われる。
1873年 日本坑法制定・シンクルトンの指導 近代的な採掘制度と技術の導入が進む。
1874年 中野貫一 新津油田の金津地区で近代的な採油事業を開始。
1903年 中野家・C1号井 新津油田で綱式機械掘りが成功し、採油技術が発展する。
1907年ごろ ポンピングパワー方式 採油の動力化によって事業規模が拡大する。
1992年・1994年 胎内市黒川の文化財指定 くそうずが県天然記念物、臭水油坪が国指定史跡となる。
1996年 新津油田金津鉱場 長年続いた石油採掘が終了する。
2018年 新津油田金津鉱場跡 10月15日に国指定史跡となる。

この年表から分かるのは、くそうずの歴史が、自然湧出を利用した古代・中世の段階から、江戸時代の採掘事業、明治以降の近代産業へと発展してきたことだ。

【新津油田の発展】煮坪から近代石油産業へ

新津油田は、新潟市秋葉区の新津丘陵とその周辺に広がる、日本を代表する歴史的な産油地帯である。

その範囲は幅約6キロメートル、延長約16キロメートルに及ぶ。自然に原油が湧き出す場所が点在し、江戸時代から採油が行われていた。

中野貫一が近代的な採油事業を発展させた

新津油田の近代化を語るうえで欠かせない人物が中野貫一(1846~1928年)だ。

新潟市と文化庁の文化財解説によると、中野は明治7年(1874年)、日本坑法に基づく採掘権を得て金津地区で採油を始めた。

当初は人力による手掘りだったが、その後、上総掘りを導入。さらに明治36年(1903年)には綱式機械掘りによるC1号井の成功を収め、明治40年(1907年)ごろにはポンピングパワー方式も取り入れた。

こうした技術革新によって、新津油田の採油事業は大きく発展した。中野貫一は後に「日本の石油王」と呼ばれるほどの存在となった。

手掘りから機械掘りへ、採油技術はどう変わったのか

江戸時代から明治20年代にかけて使われた手掘り井戸は、人が穴の中に入り、つるはしや鍬などを使って地下へ掘り進める方式だった。

新潟市秋葉区の公式資料によると、井戸の直径は1メートル以上あり、側面の崩落を防ぐために木枠をはめながら掘削していた。

深く掘るほど酸素不足やガス発生の危険が増すため、地上から足踏み式のふいごで空気を送り込む工夫も必要だった。

その後、上総掘りや機械掘りが導入されることで、より効率的な採油が可能になった。採油技術の進歩は、単に井戸を深く掘るだけでなく、採油量の拡大や産業としての安定化にもつながった。

煮坪という名前はなぜ付いたのか

煮坪の名前は、油井から噴き出す液体の様子に由来する。

新潟市の公式解説によると、油井が活発だったころ、石油・天然ガス・水が混じり合った黒い液体が激しく噴き上がり、周囲には沸々と物を煮ているような音が響いていた。

この様子から「煮坪」と呼ばれるようになったという。

煮坪は江戸時代の人々にとって非常に珍しい現象であり、柄目木の土火(天然ガス)とともに「越後七不思議」の一つとして知られた。『北越奇談』にも紹介され、多くの旅人が訪れる名所になった。

しかし、明治以降に新津丘陵の各地で採油が進むと、煮坪の自噴する力は徐々に弱まった。現在は、当時のように激しく噴き上がる姿を見ることはできない。

それでも、新津油田の歴史を伝える重要な場所として、新潟市の指定文化財に位置付けられている。

1996年まで続いた新津油田と国指定史跡

新津油田は近代以降も長く操業を続けた。文化庁の国指定文化財等データベースによると、金津鉱場では明治7年(1874年)から平成8年(1996年)まで採掘・精製に関係する操業が続いた。

操業終了後も、油井のやぐら、ポンピングパワー、集油施設、送油施設、タンクなどが残されている。

これらは原油を採掘し、水分を取り除き、精製施設へ送り出すまでの一連の仕組みを知ることができる貴重な産業遺産だ。

平成30年(2018年)10月15日には「新津油田金津鉱場跡」として国の史跡に指定された。指定面積は78,639.41平方メートルに及ぶ。

【検証資料 3】くそうずに関する近況・インタビュー報道記録(出典:Yahoo!ニュース)

【2026年に訪ねる史跡】黒川石油公園と新津・石油の里

くそうずの歴史を現地で感じたいなら、新潟県内の二つの地域を訪ねると理解が深まる。

一つは胎内市の黒川石油公園。もう一つは新潟市秋葉区の新津油田・石油の里である。

どちらも石油に関係する場所だが、見られるものや歴史的な意味は異なる。

胎内市・黒川石油公園とシンクルトン記念館

黒川石油公園は、新潟県胎内市下館にある石油関連の史跡である。自然に湧き出す原油を間近で見られることが大きな特徴だ。

黒川地区では古くから原油が湧出しており、13世紀の奥山荘関係の絵図や古文書にも関連する記載が残る。現在も地域の歴史を伝える場所として保存されている。

この地域の近代的な採油に大きく関係した人物が、英国人医師のシンクルトンである。

明治6年(1873年)、シンクルトンの指導によって手掘りによる採油技術が伝えられ、黒川では100か所近くの井戸が掘られたと胎内市の文化財保存活用地域計画に記されている。

現在のシンクルトン記念館では、黒川油田の歴史や採油に関係する資料を通じて、地域の石油産業を学べる。

黒川のくそうずと文化財指定

黒川石油公園には、文化財として保護されている原油湧出地と油坪跡がある。

  • 1992年(平成4年):黒川のくそうずが新潟県指定天然記念物となる。
  • 1994年(平成6年):臭水油坪が国指定史跡となる。

胎内市の文化財保存活用地域計画では、黒川のくそうずを地質鉱物、臭水油坪を遺跡として整理している。

単に昔の油田跡が残っているだけではない。地中から原油が自然に湧き出す地形そのものが、地域の貴重な自然・文化遺産として保存されているのである。

毎年7月1日の黒川燃水祭

黒川石油公園を語るうえで欠かせないのが、黒川燃水祭である。

胎内市では昭和58年(1983年)から、『日本書紀』の燃える水の献上故事にちなんだ祭りを毎年7月1日に開催している。

祭りでは「カグマ」と呼ばれる伝統的な採油道具を使い、かつての方法で原油を採取する様子が披露される。地元の保存会による献上行列も行われる。

さらに、採取した原油は7月7日に滋賀県大津市の近江神宮で行われる近江神宮燃水祭に献上される。胎内市の保存活用地域計画にも、この伝統が継承されていることが記されている。

2026年も胎内市は7月1日に黒川燃水祭を開催した。市の公式案内では、一般の見学が可能な行事として紹介されている。

2026年のシンクルトン記念館の見学情報

2026年6月4日更新の胎内市公式案内によると、シンクルトン記念館は予約制で開館している。

  • 所在地:新潟県胎内市下館1622
  • 開館時間:午前9時~午後5時
  • 開館方法:予約時のみ開館
  • 予約:入館希望日の1週間前までに申し込みが必要
  • 入館料:一般300円、小・中学生150円
  • 問い合わせ:胎内市教育委員会生涯学習課文化・文化財係
  • 電話:0254-47-3409

予約時以外は休館となるため、訪問前の連絡が欠かせない。屋外の公園と記念館の利用条件を混同せず、展示施設を見学する場合は事前に開館状況を確認したい。

新潟市秋葉区・煮坪と石油の里公園

もう一つ訪ねたいのが、新潟市秋葉区の石油の里公園と煮坪周辺である。

こちらは、真柄仁兵衛が発見したと伝わる新津油田の発祥地と、江戸時代から近代にかけて発展した採油技術を知ることができる場所だ。

周辺には次のような歴史的な見どころが残っている。

  • 煮坪:新津油田発祥の地と伝わる市指定文化財の油井。
  • 手掘石油井戸:機械掘り以前の採油方法を伝える市指定文化財。
  • 草水の神明神社:真柄仁兵衛による草水発見を記念して創立したと伝わる神社。
  • 熊沢トンネル:明治33年(1900年)に開通し、原油や資材の運搬を支えたトンネル。
  • 石油文化遺産施設:かつて使用されていた採掘・精製関連施設を保存する区域。

特に手掘石油井戸は、機械化以前の採掘作業を知るうえで貴重な遺構だ。新潟市の説明によると、保存されている井戸は明治10年(1877年)ごろに掘られたと推定され、深さは約27メートルに達する。

石油の里公園に残る金津鉱場の施設群は、2018年に国指定史跡となった。新津油田の採掘から精製までの仕組みを現地で理解できる点が大きな魅力である。

黒川石油公園と新津油田は何が違う?

両者は同じ新潟県の石油史を伝える場所だが、歴史的な役割を整理すると違いが分かりやすい。

  • 黒川石油公園:自然に湧き出す原油、古代の献上伝承、伝統的な採油方法を知りたい人に向いている。
  • 新津油田・石油の里:真柄仁兵衛による開発、煮坪、手掘り井戸、近代的な採掘・精製設備を知りたい人に向いている。

くそうずの歴史を一つの流れとして理解したいなら、胎内市と新潟市秋葉区の両方を訪ねるのがおすすめだ。古くからの自然湧出地と、近代産業へ発展した油田の姿を比較できる。

【プロの結論】くそうずの歴史から分かる越後と石油の深い関係

くそうずの歴史を振り返ると、単なる石油の古称という説明だけでは捉えきれない、地域と資源の関係が見えてくる。

古代には越国から宮廷へ燃土・燃水が献上され、鎌倉時代には石油湧出地に関係する地名が文書に記録された。江戸時代には採掘権や課税制度が整い、真柄仁兵衛らによる採油事業が展開された。そして明治以降、中野貫一らが近代的な採掘技術を導入し、新潟の石油産業を発展させた。

この一連の歴史は、自然資源の発見が地域経済を生み、技術革新によって産業へと成長し、最終的に文化財として保存されるまでの過程を示している。

特に重要なのは、黒川と新津を同じ場所として扱わないことだ。黒川は古代の献上伝承と自然湧出地の保存、新津は真柄仁兵衛の発見に始まる採油事業と近代石油産業の遺産という、それぞれ異なる歴史的価値を持っている。

また、現在の煮坪が昔のように激しく噴き上がっていないことも、歴史を考えるうえで重要だ。自然資源は採掘や利用によって姿を変える。現地に残された井戸や施設は、その変化を具体的に伝えている。

2026年現在、くそうずは新潟県の自然・産業・歴史文化をつなぐ貴重な遺産である。単に珍しい古語として覚えるのではなく、日本の石油産業がどこから始まり、どのように発展したのかを知る手掛かりとして捉えたい。

【くそうずに関するよくある質問(FAQ)】

Q1:くそうずの正しい読み方と意味は何ですか?
A1:くそうずと読みます。「草生水」「草水」「臭水」などと表記され、地表に自然に湧き出した原油を意味する古い呼び名です。独特の臭気や草の間から染み出す様子が、名前や漢字表記の由来とされています。

Q2:日本書紀に登場する燃える水は何年の記録ですか?
A2:天智天皇7年に当たる668年7月の記録です。越国から燃土と燃水が献上されたと記されています。燃土は天然アスファルト、燃水は石油と解釈されています。ただし、献上された地点が現在の胎内市黒川だったかどうかは、地域の伝承と史料上の確定事項を分けて考える必要があります。

Q3:くそうずの史跡は現在どこで見られますか?
A3:主な見学先は新潟県胎内市の黒川石油公園・シンクルトン記念館と、新潟市秋葉区の煮坪・石油の里公園です。黒川では自然に湧き出す原油や古代の献上伝承、新津では真柄仁兵衛による開発や近代的な石油採掘施設を学べます。なお、シンクルトン記念館は2026年現在、事前予約制です。

まとめ:くそうずは日本の石油史を伝える越後の歴史遺産

くそうずとは、かつて越後を中心に使われた石油の古い呼び名である。「草生水」「草水」「臭水」という表記には、自然に湧き出す原油の特徴や、当時の人々の観察が反映されている。

668年の『日本書紀』の献上記録、江戸時代の採掘と利用、1608年ごろの真柄仁兵衛による煮坪の発見、明治以降の新津油田の発展は、すべて日本のエネルギー史につながる重要な出来事だ。

2026年に現地を訪れるなら、自然湧出と古代の伝承を知る胎内市の黒川石油公園、近世から近代への採油技術の発展を知る新潟市秋葉区の石油の里公園を見比べてみたい。

地面から湧き出す一滴の油が、古代の献上品となり、江戸時代の生活資源となり、近代日本の産業を支えるまでになった。くそうずという言葉には、越後の土地と人々が長い時間をかけて築いてきた石油文化の記憶が刻まれている。

主な根拠資料: 新潟市、胎内市、新潟県立図書館、文化庁、資源エネルギー庁、石油技術協会の公的資料・専門資料を参照。