栗城史多の生涯とエベレスト8度の挑戦|凍傷・死因訂正・批判の真相を2026年版で解説
1982年、北海道に生まれた登山家・栗城史多(くりき・のぶかず)。世界最高峰エベレストへの単独・無酸素登頂を目指し、2009年から計8回の挑戦を続けた人物だ。登山の様子をインターネットで生中継する「冒険の共有」という独自の活動でも知られ、一般社会から大きな注目を集めた。
しかし、その登山スタイルには専門家や登山関係者から厳しい批判も寄せられていた。2012年にはエベレストで重度の凍傷を負い、両手の指9本の大部分を失う。それでも2014年にブロードピーク登頂を果たして復帰したが、2018年5月21日、8度目のエベレスト挑戦中に35歳で亡くなった。2026年現在も、彼の挑戦は功績と批判の両面から検証され続けている。
【この記事の重要ポイントまとめ】

- 栗城史多は1982年北海道生まれの登山家。2009年からエベレストに計8回挑戦したが、山頂には到達していない。
- 2012年のエベレスト西稜挑戦で両手の指9本を失う重度の凍傷を負ったが、2014年にブロードピークの単独・無酸素登頂に成功した。
- 2018年5月21日にエベレストで死去。当初発表された低体温症ではなく、後日、下山中の滑落による頭部や全身への強打と死因が訂正された。
- 「単独無酸素登山」をめぐっては、シェルパや撮影スタッフの支援、固定ロープの使用などが批判の対象となった。
- 河野啓の著書『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』は、本人の生き方だけでなく、メディアやスポンサー、登山の評価構造にも光を当てている。
【栗城史多の経歴】北海道出身の登山家がエベレストを目指すまで

1982年生まれ、大学時代に登山を始める

栗城史多は1982年、北海道で生まれた。大学の山岳部に入ったことをきっかけに登山を始め、国内外の山で経験を積んでいく。
2004年にはマッキンリー(現在のデナリ)に単独登頂。翌2005年にはアコンカグア、エルブルース、キリマンジャロなどを登り、2006年にはカルステンツ・ピラミッドにも挑戦した。
2007年には標高8201メートルのチョ・オユーに単独・無酸素で登頂。2009年には標高8167メートルのダウラギリにも単独・無酸素で登頂している。
こうした実績を背景に、彼は8000メートル級の高峰に挑む登山家として知られるようになった。
「冒険の共有」とインターネット生中継
栗城史多の活動を語るうえで欠かせないのが、「冒険の共有」という考え方だ。
2009年から登山中の映像をインターネットで配信し、山頂を目指す過程や高所での生活を視聴者と共有する活動を始めた。
従来の登山家は、山そのものの美しさや登頂記録、未踏ルートの開拓などを中心に活動を発信することが多かった。一方、栗城は自分自身の姿をカメラに収め、登山中の感情や苦労も含めて伝える手法を採用した。
その発信は登山経験のない人にも届き、企業や学校での講演活動、人材育成アドバイザーとしての仕事にもつながっていった。
特に、困難に挑む姿を通して、登山以外の目標に向き合う人々にも勇気を届けようとした点が特徴的だった。
栗城史多の主な登山実績
| 年月 | 山・出来事 | 記録・結果 |
|---|---|---|
| 2004年6月 | マッキンリー | 単独登頂 |
| 2005年 | アコンカグアなど | 複数の大陸最高峰に登頂 |
| 2007年5月 | チョ・オユー | 単独・無酸素登頂 |
| 2008年10月 | マナスル | 頂上直下まで到達。後に公式記録を訂正 |
| 2009年5月 | ダウラギリ | 単独・無酸素登頂 |
| 2009年9月 | エベレスト1回目 | 北側7750m地点まで |
| 2010年10月 | エベレスト2回目 | 南側7550m地点まで |
| 2011年10月 | エベレスト3回目 | 7800m地点まで |
| 2012年10月 | エベレスト4回目 | 西稜8070m地点まで。重度の凍傷 |
| 2014年7月 | ブロードピーク | 8047m、単独・無酸素登頂 |
| 2015年10月 | エベレスト5回目 | 8150m地点まで |
| 2016年10月 | エベレスト6回目 | 7400m地点まで |
| 2017年5月 | エベレスト7回目 | ルート変更後、登頂を断念 |
| 2018年5月 | エベレスト8回目 | 南西壁への挑戦中、下山時に滑落し死去 |
※登山記録は本人の公式サイトに掲載された経歴を基本として整理。2008年のマナスルについては、登頂証明書が発行されていたものの、後の指摘を受けて2019年1月に「頂上直下まで」と変更されている。
【2012年の凍傷】両手の指9本を失っても登山を続けた理由
エベレスト西稜8070メートルで下山を決断
2012年10月、栗城は4度目のエベレスト挑戦に臨んだ。
選択したのは、西稜からホーンバイン・クーロワール方面を目指す難度の高いルートだった。
西稜は強風にさらされやすく、秋季は気象条件も厳しい。栗城は標高8070メートル付近まで到達したものの、強風による危険を考慮して登頂を断念し、下山を始めた。
ところが、この下山中に両手、両足、鼻に重度の凍傷を負う。
手の指9本を失うという重大な代償
凍傷の結果、栗城は両手の指9本の大部分を失った。
残った右手の親指を除く9本が深刻な損傷を受け、登山に必要な道具を握る能力にも大きな影響が及んだ。
足の指と鼻も凍傷になったが、こちらは残すことができた。
登山家にとって手の指は、ピッケルやロープを扱い、岩や氷をつかむための重要な身体機能である。その大部分を失うことは、競技生活の継続そのものを脅かす出来事だった。
2015年のインタビューでは、凍傷後の治療やリハビリについても語っている。
2014年ブロードピーク登頂で復帰
栗城は引退を選ばなかった。
リハビリとトレーニングを続け、2014年7月、パキスタンと中国の国境に位置するブロードピークに挑戦する。
標高8047メートルのブロードピークは、8000メートル峰の一つだ。
2014年7月24日、栗城は同峰の単独・無酸素登頂に成功した。
これは2012年の凍傷からの復帰を示す大きな成果だった。さらに、登頂後の下山中には意識を失いかけていた台湾隊の登山者を救助したことも、当時の所属会社の発表で伝えられている。
指9本を失った後も8000メートル峰の頂上に立ったという事実は、栗城の登山歴における重要な実績である。
ただし、ブロードピーク登頂の成功と、エベレストの難ルートを安全に登れる能力が同じであるとは限らない。この違いは、後の批判を理解するうえでも重要になる。
【2018年の滑落事故】エベレスト8回目の挑戦と死因訂正の真相
最後に選んだのはエベレスト南西壁
2015年から栗城は再びエベレストに挑み続けた。
2015年は8150メートル、2016年は7400メートル付近まで到達。2017年には中国側のルートに挑んだものの、ブルーアイスに阻まれ、ネパール側に計画を変更した後も登頂には至らなかった。
そして2018年5月、8回目となるエベレスト挑戦を開始する。
最後に選んだルートは南西壁だった。
栗城の公式プロフィールでは7300メートル付近まで進んだ後に下山したとされる。一方、死亡後の所属事務所の説明では、5月20日に標高7400メートルのキャンプ3まで上がったと報告されている。
2018年5月21日、35歳で死去
2018年5月20日、栗城は標高7400メートルのキャンプ3まで上がった後、少し標高を下げてテントを設営した。
その後、体調不良を理由に下山することを無線で撮影隊に伝え、下山を開始した。
しかし、その後は無線連絡に反応しなくなった。
撮影隊が捜索したところ、標高6600メートル付近で栗城の遺体が発見された。
2018年5月21日、栗城史多は35歳で亡くなった。
死因は低体温症から滑落による強打に訂正
栗城史多の死因については、当初の発表と後日の説明に違いがある。
| 時期 | 発表・出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 2018年5月21日 | 最初の死亡発表 | 下山中に遺体で発見され、低体温で亡くなったと説明 |
| 2018年5月25日 | 所属事務所が訂正 | 実際には下山中の滑落による頭部・全身への強打が原因と発表 |
| 2018年5月28日 | 報道各社が訂正内容を報道 | 事故の経緯や滑落の推定距離などを紹介 |
当初は低体温症による死亡と伝えられていたが、5月25日、所属事務所が公式ブログなどで訂正した。
訂正発表によれば、撮影隊との緊急連絡に行き違いがあり、最初の情報が正確ではなかったという。
遺体の状況から、滑落距離は約100~200メートルと推測された。
つまり、栗城史多の死因について正確に理解するには、最初の報道だけではなく、5月25日の訂正発表を確認する必要がある。
なお、公開された説明で確認できるのは、下山中の滑落と身体への強い衝撃である。事故の具体的な瞬間を撮影した映像や、あらゆる医学的詳細が公表されているわけではない。
【評判と批判の理由】栗城史多の単独無酸素登山は本当に単独だったのか
栗城史多の評価が大きく分かれた理由は、登山技術だけではない。
一般の視聴者にとっては、指を9本失っても再び高峰に挑む姿や、登山中の映像をリアルタイムで届ける活動が魅力的に映った。
一方、登山経験者や専門家の間では、登山の難易度、技術的な実力、単独登山という表現の妥当性について疑問が呈されていた。
批判理由1:単独登山の定義と実際の支援体制
最大の論点は「単独」という言葉だった。
栗城は単独・無酸素での登山を活動の大きな柱にしていた。しかし、登山の現場では、本人が一人で登攀することと、遠征全体を一人で行うことは別の問題である。
河野啓の『デス・ゾーン』では、2009年のエベレスト遠征について、同行スタッフが約30人に及び、10人以上のシェルパが関係していたという証言が紹介されている。
また、同書では、撮影隊のために設置されたザイルを栗城が登攀時に利用していたという関係者の証言も取り上げられている。
ここで重要なのは、登山界における「単独」の定義が必ずしも統一されていないことだ。
他の登山隊が設置した固定ロープやハシゴを利用するか、他人からルート情報を得るか、登攀中にどこまで支援を受けるかによって、単独性の評価は変わる。
したがって、栗城の登山を評価するときは、本人が山を登る場面だけでなく、遠征を支えるチーム全体の仕組みも見る必要がある。
批判理由2:実力と挑戦するルートの難易度
もう一つの論点は、挑戦するルートの選択だった。
栗城はエベレストの一般的な登山ルートより難しい北壁や西稜、南西壁などを選んできた。
登山専門ライターの森山憲一は、2018年の文春オンラインの記事で、栗城の実力と掲げる目標の間に大きな隔たりがあったと批判している。
特に、十分な経験や技術が必要な難ルートを、無酸素・単独という条件で登ろうとすることについて、危険性を指摘していた。
この批判は、挑戦すること自体を否定するものではない。
高所登山では、体力、技術、気象判断、ルートの難易度、撤退のタイミングなどを総合的に判断する必要がある。意欲や精神力だけでは解決できない危険が存在するためだ。
批判理由3:生中継とスポンサーを意識した活動構造
栗城の特徴は、登山をインターネットで発信し続けたことにある。
「冒険の共有」は、登山を知らない人にも挑戦の過程を届けるという意味で画期的だった。
しかし、登山をコンテンツとして届ける場合、視聴者の期待やスポンサーとの関係が活動に影響する可能性がある。
難しいルートを選ぶこと、挑戦を続けること、注目を集めることが、登山の安全性や技術的な判断とどのように両立するのか。
この問題は、栗城の活動に対する批判の背景にあった。
評判を整理すると見えてくる評価の違い
| 評価の視点 | 肯定的な評価 | 批判的な評価 |
|---|---|---|
| 挑戦する姿勢 | 凍傷後も復帰した精神力 | 危険な挑戦を繰り返した |
| 登山実績 | 8000m峰の単独・無酸素登頂 | エベレストの難ルートに対する実力の問題 |
| 単独登山 | 一人で登攀する姿を発信 | シェルパや固定ロープの支援との整合性 |
| 情報発信 | 登山を一般層に広めた | 演出やスポンサーとの関係が登山に与える影響 |
| 社会的影響 | 挑戦する勇気を伝えた | 挑戦の美化による安全面への懸念 |
こうした評価の違いは、栗城が単純な成功者でも、単純な失敗者でもなかったことを示している。
【デス・ゾーン】河野啓が明らかにした栗城史多の知られざる背景
2020年、第18回開高健ノンフィクション賞を受賞
栗城史多の人物像を理解するうえで重要な資料が、ジャーナリスト河野啓による著書『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』だ。
2020年に集英社から刊行され、第18回開高健ノンフィクション賞を受賞した。
著者の河野啓は、北海道放送のディレクターとして活動し、栗城の登山や発信を取材してきた人物である。
この本は、単にエベレストで亡くなった登山家の生涯をまとめたものではない。
本人の人間関係、スポンサーとの関係、登山隊の実態、メディアでの見せ方、登山家としての評価など、複数の視点から栗城の人生を追っている。
なぜ栗城はエベレストに挑み続けたのか
本書で中心的に扱われるのは、栗城がなぜ危険な挑戦を続けたのかという問いだ。
指9本を失った後もエベレストを目指し、難度の高いルートに挑み続けた背景には、登山家としての目標だけでは説明しきれない複雑な事情があった。
「冒険の共有」という活動は、栗城の知名度を高める一方で、挑戦する姿を見せ続けるという役割も生み出した。
応援する人々、スポンサー、撮影スタッフ、関係者との関係が、本人の選択にどのような影響を与えたのか。
河野は、関係者への取材や記録を重ねながら、その構造を描いている。
「単独」の意味を問い直した作品
本書の重要な論点の一つが、単独登山の定義である。
登山者が一人で岩壁や雪面を登っていたとしても、遠征には多くの人が関わる場合がある。
気象情報の分析、物資の輸送、ルートの確保、撮影、通信など、登山を成立させる支援は多岐にわたる。
こうした支援をどこまで認めるのかは、単独登山の評価に直結する。
河野の取材では、元副隊長の森下亮太郎らの証言を通じて、栗城の登山隊の実態や固定ロープの問題が掘り下げられている。
ただし、これは栗城の登攀実績をすべて否定するという話ではない。
実際にブロードピークなどで登頂を果たした記録と、エベレストにおける「単独」という表現の妥当性は、分けて考える必要がある。
『デス・ゾーン』が残した問い
本書が提示した問いは、栗城個人の評価にとどまらない。
登山家がメディアに取り上げられ、スポンサーを獲得し、視聴者の期待を背負うようになると、挑戦そのものの意味は変化するのか。
本来、登山では撤退する判断も重要な能力である。しかし、視聴者が成功を期待し、活動を支える人々が次の挑戦を待っている場合、撤退という選択は心理的にも社会的にも難しくなる可能性がある。
『デス・ゾーン』は、栗城の悲劇を通じて、冒険とメディア、個人の承認欲求、社会的な期待が交差する問題を浮かび上がらせた。
【栗城史多の現在・2026年現在】死去後の活動と記憶の継承
2026年現在も故人であり、新たな登山活動はない
栗城史多は2018年5月21日に亡くなっている。
2026年11月現在、存命ではなく、新たなエベレスト挑戦や登山活動も行っていない。
生前に運営されていた公式サイトにはプロフィールや登山歴などが掲載されており、これまでの活動を確認できる資料として残されている。
出身地・北海道今金町でメモリアル展示
栗城の出身地である北海道今金町では、故人となった後もその活動を伝える取り組みが続いている。
今金町の行政情報によると、町内の公共施設で栗城に関するメモリアル展示が行われている。
展示場所として案内されているのは、次の3施設だ。
- 今金町民センター
- 今金町総合体育館
- あったからんど
また、今金町は栗城をふるさと応援大使として紹介している。
こうした展示は、彼の挑戦や登山記録を地域の歴史として伝える役割を担っている。
栗城史多の評価は今後も一面的には決まらない
栗城の活動には、一般の人々に冒険の魅力を届けたという功績がある。
一方で、登山界からの批判や、単独登山をめぐる議論、危険なルート選択の問題も残されている。
そのため、彼の生涯を振り返る際には、挑戦する姿に感動したという評価だけでも、批判的な記録だけでも不十分だ。
登頂に成功した山、登頂できなかったエベレスト、2012年の凍傷、2018年の滑落、そして登山を支えたチームやメディアの存在。
それぞれを切り分けて見ることが、栗城史多という人物を理解するための出発点になる。
【栗城史多に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:栗城史多は何歳で亡くなった?
A1:2018年5月21日、35歳で亡くなった。エベレスト8回目の挑戦中、下山途中に滑落したことが死去につながった。
Q2:栗城史多の死因は低体温症だった?
A2:当初は低体温症と発表されたが、2018年5月25日に所属事務所が訂正した。実際には標高7400メートル付近からの下山中に滑落し、頭部や全身を強く打ったことが原因と説明されている。
Q3:栗城史多はエベレストに登頂できた?
A3:エベレストへの挑戦は計8回に及んだが、いずれも山頂には到達していない。最後の2018年は南西壁に挑み、下山中に滑落して亡くなった。
Q4:2012年の凍傷で何本の指を失った?
A4:両手の指9本の大部分を失った。両足と鼻にも重度の凍傷を負ったが、こちらは残すことができた。
Q5:栗城史多はブロードピークに登頂した?
A5:登頂している。2014年7月24日、標高8047メートルのブロードピークに単独・無酸素で登頂した。2012年の凍傷からの復帰を示す重要な実績となった。
Q6:栗城史多が批判された理由は?
A6:主な理由は、単独登山という表現と実際の支援体制の関係、登山技術と難ルートの選択、メディアやスポンサーとの関係などだ。一方、8000メートル峰の登頂実績や、登山を一般層に広めた活動は評価されている。
Q7:栗城史多の生涯を詳しく知るには何を読めばいい?
A7:河野啓の『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』がおすすめだ。2020年の第18回開高健ノンフィクション賞を受賞した作品で、登山記録だけでなく、関係者の証言や本人を取り巻く環境も掘り下げている。
【プロの結論】栗城史多の功績と批判を分けて考えるべき理由
栗城史多の生涯には、現代の冒険とメディアの関係を考えるうえで重要な教訓が残されている。
第一に、凍傷で指9本を失った後もブロードピークに登頂したことは、具体的な登山実績として評価されるべきだ。身体的な大きな障害を抱えながら8000メートル峰に復帰した事実は、彼の経歴から切り離せない。
第二に、単独無酸素という言葉の使い方や、登山隊の支援体制については、客観的な記録と関係者の証言を照らし合わせて評価する必要がある。登山家としての実績と、発信された肩書きの妥当性は同じ問題ではない。
第三に、彼の活動は、インターネット配信によって冒険を一般の人々に届ける新しい可能性を示した一方、視聴者の期待やスポンサーとの関係が挑戦の方向性に影響する危険も浮かび上がらせた。
登山において、頂上を目指す能力と同じくらい重要なのが、危険を察知して撤退する判断力である。
栗城の最後の挑戦を振り返るとき、結果だけを見て挑戦を美化することも、批判だけで人生全体を否定することも適切ではない。
栗城史多は、登山の可能性を社会に発信した人物であると同時に、冒険をコンテンツ化することの難しさと危険性を残した人物でもある。
2026年現在、彼の挑戦を正しく受け止めるために必要なのは、登頂記録、技術的な評価、支援体制、事故の経緯をそれぞれ検証し、功績と問題点の両方を見つめる姿勢だ。
主な参考資料・報道
- 栗城史多公式サイト「プロフィール・登山歴」
- ITmedia NEWS「登山家・栗城史多氏の死因は『滑落』事務所が訂正」
- 集英社『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』
- 文春オンライン・河野啓による登山隊関係者への取材記事
- オリコンニュースの2012年凍傷・2014年復帰登山報道
- 北海道今金町の公式行政情報