原敬内閣とは?1918年の成立理由・四大政策・選挙法改正から暗殺まで徹底解説【2026年版】
原敬内閣(はらたかしないかく)は、1918年(大正7年)9月29日に成立した、日本初の本格的政党内閣です。立憲政友会総裁の原敬が首相に就任し、陸軍・海軍・外務の3大臣を除く閣僚を政友会の党員で構成しました。爵位を持たない首相の誕生は「平民宰相」として大きな注目を集め、日本の政党政治が新たな段階に入ったことを象徴しています。
成立の背景には、1918年の米騒動による寺内正毅内閣の退陣がありました。その後、原内閣は教育・交通・産業・国防を柱とする積極政策を進め、1919年には衆議院議員選挙法を改正して納税資格を直接国税10円以上から3円以上へ引き下げます。一方、普通選挙の実現には慎重で、シベリア出兵や植民地統治をめぐる問題も抱えていました。1921年11月4日の東京駅での原敬暗殺によって、その政権は大きな転換点を迎えます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 成立と在任期間: 1918年9月29日成立。原敬は1921年11月4日の暗殺まで、1,133日間首相を務めた。
- 政党政治の転換: 陸海軍・外務の3大臣を除き、立憲政友会の党員を中心に組閣した初の本格的政党内閣だった。
- 政策と限界: 教育・交通・産業・国防を推進し、選挙権を拡大した一方、普通選挙の実現や社会運動への対応には大きな課題を残した。
【米騒動が政権交代を招いた!原敬内閣の成立理由と1918年の政治情勢】

米騒動で寺内正毅内閣が退陣した背景

原敬内閣の成立を理解するには、1918年の日本社会を揺るがした米騒動から振り返る必要があります。
第一次世界大戦中、日本経済は好景気に沸いていました。しかし、物価上昇によって一般庶民の生活は圧迫され、とりわけ米価の高騰が深刻な問題になっていました。
1918年7月、富山県で米の安売りを求める住民の動きが発生します。これが新聞報道などを通じて全国に広がり、各地で大規模な騒動へと発展しました。
国立国会図書館の展示資料「史料にみる日本の近代」には、シベリア出兵を見越した地主や米穀商の思惑買いも米価高騰の背景にあったことが記録されています。
8月には神戸市で鈴木商店や神戸新聞社などが焼き打ちされる事態となり、政府は各地に軍隊を出動させました。
当時の首相は寺内正毅です。寺内内閣は米騒動への対応に追われ、政治的な責任を問われる立場になりました。
寺内自身も以前から健康問題を抱えて辞意を漏らしており、米騒動の終息後間もない1918年9月21日に退陣しました。
なぜ後継首相に原敬が選ばれたのか

寺内内閣の退陣後、後継首相の人選をめぐって元老たちの調整が始まります。
当初、元老の山県有朋は、政党内閣を避けるため、西園寺公望の再登板を考えていました。しかし、西園寺は健康上の問題などを理由に就任を辞退します。
そこで候補として浮上したのが、立憲政友会総裁の原敬でした。
原敬は新聞記者から外務省に入り、外務次官などを経験した後、政界に進出した人物です。伊藤博文が創設した立憲政友会に参加し、党内で実力を伸ばしました。
1914年には第3代立憲政友会総裁に就任。政党運営に長け、官僚や元老との調整にも対応できる政治家として評価されていました。
米騒動によって国民の政治不信が強まるなか、政党を基盤とする新しい政権の樹立が現実味を帯びていきます。
こうして原敬に組閣の大命が下り、1918年9月29日、原敬内閣が成立しました。
これは単なる首相交代ではありません。藩閥や官僚を中心とする政治から、政党を基盤とする政治への大きな転換でした。
【なぜ初の本格的政党内閣?原敬の組閣と平民宰相の意味】
立憲政友会を中心とした閣僚構成
原敬内閣が「初の本格的政党内閣」と呼ばれる最大の理由は、その閣僚構成にあります。
それ以前にも政党と関係を持つ内閣は存在しました。しかし、政党の総裁が首相となり、内閣の大部分を自党の議員で構成する体制は確立していませんでした。
原敬は立憲政友会の総裁として首相に就任し、陸軍・海軍・外務の3大臣を除く閣僚を政友会員で構成しました。
特に重要なのは、首相自身が衆議院議員だったことです。これは日本の歴代首相の中でも初めてのことでした。
主要閣僚には、次のような人物がいました。
| 役職 | 人物 | 主な役割・特徴 |
|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 原敬 | 立憲政友会総裁。政権全体を統括 |
| 外務大臣 | 内田康哉 | 外交政策を担当 |
| 内務大臣 | 床次竹二郎 | 国内行政・警察行政を担当 |
| 大蔵大臣 | 高橋是清 | 財政・金融政策を担当 |
| 陸軍大臣 | 田中義一 | 陸軍を代表 |
| 海軍大臣 | 加藤友三郎 | 海軍を代表 |
| 文部大臣 | 中橋徳五郎 | 教育政策を担当 |
| 農商務大臣 | 山本達雄 | 農業・商工業政策を担当 |
| 逓信大臣 | 野田卯太郎 | 通信行政を担当 |
この構成からも分かるように、政友会が政権運営の中心を担っていました。
ただし、陸軍・海軍・外務の各大臣は政党の枠外に置かれていました。つまり、政党が国家のすべての権力を掌握したわけではありません。
軍部や元老、貴族院などとの関係を維持しながら政権を運営する必要がありました。
「平民宰相」と呼ばれた理由
原敬を語るうえで欠かせない言葉が「平民宰相」です。
当時の首相には、華族や旧藩閥と深い関係を持つ人物が多くいました。それに対して原敬は爵位を持たず、衆議院議員として政治活動を続けていた人物でした。
そのため、爵位を持たない首相の登場は、従来の政治秩序に対する変化として受け止められました。
ここで注意したいのは、「平民宰相」という言葉を現代の意味での完全な身分的平等と結びつけないことです。
原敬は南部藩士の家に生まれた人物であり、当時の社会制度や政治構造の中で活動していました。「平民宰相」は、主として爵位を持たない首相の誕生を象徴する呼称です。
国立国会図書館や国立公文書館の人物解説でも、原敬が初の本格的政党内閣を組織し、「平民宰相」として支持を集めたことが紹介されています。
この呼称には、政治の中心が特定の華族や藩閥だけに限定されない時代への期待が込められていました。
【原敬内閣の四大政策とは?教育・交通・産業・国防の成果】
原敬内閣は、立憲政友会が掲げていた政策を基盤に、積極政策を進めました。
その中心にあったのが、一般に「四大政綱」と呼ばれる4つの政策です。
1.教育の改善と高等教育の拡充
原敬内閣が力を入れた分野の一つが教育でした。
第一次世界大戦後の産業発展を見据え、日本の技術力や人材育成を強化する必要があったためです。
1918年12月6日には大学令が公布されました。
これによって、従来の帝国大学を中心とする高等教育制度に加え、一定の条件を満たした公立大学や私立大学などを設置できる制度的な枠組みが整えられました。
さらに、政府は高等教育機関の創設・拡張計画を推進しました。
文部科学省の教育制度史によれば、官立高等学校や高等工業学校、高等農業学校、高等商業学校などの新設・拡張を含む大規模な計画でした。
教育を単なる知識の普及ではなく、国家の産業競争力を高める基盤として位置づけた点に特徴があります。
2.交通・通信機関の整備
第二の柱は、鉄道や道路など交通インフラの整備です。
当時の日本では、地方と都市部を結ぶ交通網の充実が経済発展に欠かせませんでした。
原内閣は鉄道建設や交通機関の拡充を進め、地方経済の発展を後押ししようとしました。
1920年5月には鉄道院を拡大する形で鉄道省が設置されます。
鉄道省の設置は、全国的な鉄道網の整備と運営を強化するための行政上の大きな変更でした。
ただし、鉄道建設には政治的な側面もありました。地方に鉄道を敷設することは、地域の産業振興だけでなく、与党議員の支持基盤を強化する効果も持っていたのです。
3.産業・通商貿易の振興
第三の柱は、国内産業と貿易の発展です。
第一次世界大戦によって日本の輸出産業は成長し、企業活動も活発になりました。
原内閣は、この経済的な勢いを維持しながら、産業基盤の拡大を目指しました。
農業、工業、商業、貿易などを幅広く支援することで、国全体の経済力を高めようとしたのです。
一方、積極政策には財政負担も伴いました。鉄道建設や教育施設の拡充などには多額の資金が必要であり、財政運営の持続可能性は課題として残りました。
4.国防の充実
第四の柱は国防です。
第一次世界大戦後、国際情勢は大きく変化していました。列強の軍事力や東アジアの安全保障環境を考慮し、日本も国防体制を整える必要があると考えられていました。
原内閣は軍備の充実を政策課題に掲げました。
ただし、国防政策は軍部との関係を抜きにして考えることができません。政党内閣であっても、陸海軍大臣を政党の統制下に置くことはできず、軍事政策には制度上の制約がありました。
四大政策を一覧で比較
| 政策 | 主な内容 | 代表的な動き |
|---|---|---|
| 教育 | 高等教育機関の拡充 | 1918年の大学令公布 |
| 交通 | 鉄道・交通網の整備 | 1920年の鉄道省設置 |
| 産業 | 国内産業・貿易の振興 | 積極的な産業振興策 |
| 国防 | 軍備・防衛体制の充実 | 国防関連政策の推進 |
なお、原敬が1918年10月11日に東京商業会議所で行った施政方針演説では、教育改善、交通機関の整備、国防の充実に加えて物価の調節も取り上げられています。
演説で示された重点項目と、その後に整理された政友会の四大政綱は、必ずしも同じ表現ではありません。四大政綱として一般に整理されるのは、教育・交通・産業・国防です。
【1919年の選挙法改正で何が変わった?3円への引き下げと普通選挙の壁】
原敬内閣の政治的な成果としてよく取り上げられるのが、1919年の衆議院議員選挙法改正です。
納税資格を10円から3円に引き下げ
当時の日本では、一定額以上の直接国税を納めている男性に限って衆議院議員選挙の投票権が認められていました。
1889年に制定された衆議院議員選挙法では、当初の納税資格は直接国税15円以上でした。その後の改正で10円以上となっていました。
原敬内閣は1919年5月、選挙法を改正し、納税資格を直接国税3円以上へ引き下げました。
改正後の主な選挙資格は次のとおりです。
- 日本の男性
- 満25歳以上
- 直接国税3円以上を納めていること
この変更によって、従来より多くの男性が選挙に参加できるようになりました。
アジア歴史資料センターの「普選への道」の年表によると、改正法は1919年5月22日に成立しています。
有権者はどれほど増えたのか
選挙権の拡大は数字にも表れています。
1917年の第13回衆議院議員総選挙では、有権者数は約142万人でした。
これに対し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では約307万人に増加しています。
つまり、選挙に参加できる人は約2倍になりました。
これは当時の日本の政治参加のあり方を大きく変える出来事でした。
それでも普通選挙ではなかった
ここには重要な注意点があります。
納税資格が3円に引き下げられたとはいえ、依然として納税要件は残されていました。また、女性には衆議院議員選挙権が認められていませんでした。
つまり、原内閣の選挙法改正は普通選挙の実現ではなく、限定的な選挙権の拡大だったのです。
当時は普通選挙を求める運動が強まっており、野党の憲政会などは選挙資格のさらなる撤廃を求めていました。
しかし原敬は、普通選挙の即時実施には慎重な立場を取りました。
1920年の総選挙では政友会が多数を確保し、原内閣は政権基盤を強化します。
このように、選挙法改正は民主政治の進展に寄与した一方、政党政治の安定と与党の勢力拡大にも結びついていました。
【シベリア出兵・ヴェルサイユ条約と国際連盟!原敬内閣の外交政策】
原敬内閣の外交政策を考えるうえで重要なのが、第一次世界大戦後の国際秩序の変化です。
シベリア出兵は原内閣が始めた政策ではない
シベリア出兵は、1918年8月、第一次世界大戦末期に始まりました。
東部シベリア方面で孤立したチェコスロバキア軍を救援する目的で、日本やアメリカなどが派兵したものです。
重要なのは、出兵が始まった時点では寺内正毅内閣だったという点です。
原敬内閣は、この出兵政策を引き継ぐことになりました。
しかし、連合国各国が次々に撤兵するなか、日本は駐兵を継続しました。1920年春以降は、日本の単独駐兵という状況になります。
さらに、1920年の尼港事件によって、日本人居留民や軍関係者が犠牲になる深刻な問題が発生しました。
原内閣は国際的な批判や国内世論を考慮しながら撤兵の方針を検討しましたが、完全な撤兵には至りませんでした。
日本軍のシベリアからの全面撤退は、原敬の死後である1922年10月まで持ち越されました。
したがって、シベリア出兵は原敬内閣の外交上の重要課題であったものの、原敬自身が出兵を開始したわけではありません。
ヴェルサイユ条約への調印
第一次世界大戦の終結後、1919年1月からパリ講和会議が開催されました。
原敬内閣は西園寺公望や牧野伸顕らを全権委員として派遣し、日本の国際的地位の確保を目指しました。
1919年6月28日、日本はヴェルサイユ条約に調印します。
この条約によって、日本はドイツが保有していた山東半島の旧権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島について委任統治権を得ました。
これは日本の国際的な地位を高める一方、中国国内では強い反発を招く結果にもなりました。
特に山東問題は中国の主権に関わる問題として受け止められ、反日感情の高まりにつながりました。
国際連盟の創設と日本の役割
1920年1月10日、国際連盟が発足しました。
日本は創設時から参加し、イギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国の一つとなりました。
これは第一次世界大戦後の国際秩序において、日本が主要国として位置づけられたことを意味します。
国際協調を通じて国際的な発言力を維持することは、原敬内閣の外交上の重要な成果でした。
ただし、国際社会での地位向上と、アジア地域での日本の政策に対する評価は別問題でした。
朝鮮では1919年3月1日に三・一独立運動が発生し、日本の植民地統治に対する大規模な抗議運動となりました。これに対する日本側の武力弾圧は、国際的にも問題視されました。
原内閣の外交は、列強との協調を進めながら、東アジアでの既得権益を維持しようとする二面性を持っていたのです。
【1921年の原敬暗殺事件とは?東京駅での最期と内閣の成果・限界】
東京駅で発生した原敬暗殺事件
1921年11月4日、原敬は東京駅で暗殺されました。
当時、原は立憲政友会の近畿大会に出席するため、京都へ向かおうとしていました。
その際、東京駅で中岡艮一(なかおかこんいち)という青年に襲撃され、命を落とします。
国立国会図書館の憲政資料室が公開している阪谷芳郎の日記には、事件当日の記録が残されています。
犯人については、19歳の大塚駅の転轍作業員であった中岡艮一と記されています。
この事件は現職の内閣総理大臣が暗殺された憲政史上初の出来事であり、政界に大きな衝撃を与えました。
原敬の死によって、政友会は後継総裁の選出を迫られます。最終的には高橋是清が後継首班となりましたが、政友会内部の対立も深まり、原内閣が築いた政治基盤は揺らいでいきました。
原敬内閣が残した主な成果
原敬内閣の評価を考える際には、政党政治の発展と具体的な政策の実施を分けて見る必要があります。
主な成果は次のとおりです。
第一に、政党内閣の本格的な成立です。
政党総裁が首相となり、政党を基盤に内閣を組織する仕組みを確立しました。日本の議会政治における大きな転換点です。
第二に、教育制度の拡充です。
大学令や高等教育機関の拡張計画を通じて、大学や専門教育機関の発展につながる制度的な基盤を整えました。
第三に、選挙権の拡大です。
直接国税の納税資格を10円以上から3円以上へ引き下げ、男性有権者の範囲を広げました。
第四に、国際社会での地位向上です。
ヴェルサイユ条約への調印と国際連盟への参加によって、日本は戦後の国際秩序の中心的な位置を占めることになりました。
原敬内閣が抱えていた限界
一方、原敬内閣には明確な限界もありました。
最大の問題は、政党政治の発展が必ずしも民主政治の全面的な実現を意味しなかったことです。
選挙権は拡大されましたが、納税資格は残り、女性の参政権も認められていませんでした。
また、普通選挙運動に対して慎重な姿勢を崩さず、民衆の政治参加を求める動きとの間に対立を生みました。
さらに、朝鮮の三・一独立運動への弾圧やシベリア出兵の継続は、原内閣の外交・植民地政策に対する批判を強めました。
政友会を中心とした政治運営も、地方への利益配分や党勢拡大と結びつくことで、党利党略への批判を招くことがありました。
原敬は優れた政党運営能力を持つ政治家でしたが、政党政治を民主政治として完成させるところまでは到達しなかったのです。
原敬内閣と大正デモクラシーの関係
大正デモクラシーは、政治への民衆参加や民主的な制度改革を求める動きが広がった時代を指します。
原敬内閣は、その時代に本格的な政党政治を実現した政権でした。
しかし、政党政治の発展と普通選挙の実現は、必ずしも同じ方向に進んだわけではありません。
原内閣は議会を基盤とする政治を進めながら、普通選挙の要求には慎重でした。
つまり、原敬内閣は大正デモクラシーを前進させた存在であると同時に、その民主化の限界を示した存在でもあります。
この二面性こそが、原敬内閣を歴史的に評価する際の重要な視点です。
【原敬内閣に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:原敬内閣は何年に成立しましたか?
A1:原敬内閣は1918年(大正7年)9月29日に成立しました。原敬は1921年11月4日に東京駅で暗殺されるまで首相を務め、在職日数は1,133日でした。
Q2:原敬内閣が初の本格的政党内閣と呼ばれる理由は何ですか?
A2:立憲政友会総裁の原敬が首相に就任し、陸軍・海軍・外務の3大臣を除く閣僚を政友会員で構成したためです。政党が政権運営の中心を担った、本格的な政党内閣として評価されています。
Q3:原敬内閣の四大政策とは何ですか?
A3:教育の改善、交通機関の整備、産業・通商貿易の振興、国防の充実です。これらを柱として積極政策を推進しました。大学令の公布や鉄道省の設置などが代表的な動きです。
Q4:原敬内閣の選挙法改正では何が変わりましたか?
A4:1919年5月の衆議院議員選挙法改正によって、直接国税の納税資格が10円以上から3円以上に引き下げられました。ただし、満25歳以上の男性という条件や納税資格は残っており、普通選挙の実現ではありませんでした。
Q5:原敬はなぜ平民宰相と呼ばれたのですか?
A5:爵位を持たない人物として初めて首相になったことが大きな理由です。また、衆議院議員として議会政治を基盤に政権を担ったことも、従来の首相とは異なる特徴でした。
Q6:原敬を暗殺した人物は誰ですか?
A6:1921年11月4日、東京駅で原敬を暗殺したのは中岡艮一です。当時19歳で、大塚駅の転轍作業員でした。事件は現職首相が暗殺された初めての事例として、日本の政治史に記録されています。
まとめ:原敬内閣は政党政治の出発点であり、民主化の限界も示した
原敬内閣は、1918年9月29日に成立した日本初の本格的政党内閣です。
米騒動によって寺内正毅内閣が退陣した後、立憲政友会総裁の原敬が首相となり、政党を中心とする新しい政治体制を築きました。
その政策は、教育・交通・産業・国防の四大政綱を軸に進められました。大学令の公布、鉄道省の設置、選挙法改正など、後世の日本社会にも影響を与えた制度改革が実施されています。
一方、納税資格を残した選挙制度、普通選挙運動への慎重な姿勢、シベリア出兵、朝鮮の三・一独立運動への弾圧など、民主化と外交の両面に課題を残しました。
1921年11月4日の東京駅での暗殺によって、原敬の政治は突然終わりを迎えます。
【プロの結論】
原敬内閣を歴史的に評価する際に重要なのは、「政党内閣を成立させたこと」と「民主政治を完成させたこと」を混同しないことです。
原敬は、政党が政権を担う仕組みを現実のものにした政治家でした。しかし、政党が政権を握ることだけで、国民全体の政治参加が保障されるわけではありません。
納税資格の撤廃、女性参政権、植民地の人々の権利、軍部との関係など、当時の政治には解決されない問題が残っていました。
原敬内閣は、大正デモクラシーの到達点であると同時に、その先に残された課題を明らかにした政権でもあります。
その意味で、原敬内閣を学ぶことは、日本の政党政治がどのように始まり、民主主義がどのような制約を抱えながら発展してきたのかを理解するための重要な手がかりとなります。